嫌われる勇気 第一夜

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嫌われる勇気

 

かつて1000年の都と謳われた古都のなずれに、世界はどこまでもシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる、と説く哲学者が住んでいた。納得のいかない青年は、哲学者のもとを訪ね、その真意を問いただそうとしていた。悩み多き彼の目には、世界は矛盾に満ちた混沌としか映らず、ましてや幸福などありえなかった。

 

青年:では、あらためて質問します。世界はどこまでもシンプルである、というのが先生のご持論なのですね?

哲人:ええ。世界は信じがたいほどにシンプルなところですし、人生もまた同じです。

青年:理想論としてではなく、現実の話として、そう主張されているのですか? つまり、わたしやあなたの人生に横たわる諸問題もまた、シンプルなものであると。

哲人:もちろんでしょう。

青年:いいでしょう。議論に移る前に、今回の訪問についてお話させてください。まず、わたしがここを訪れた第一の理由は、先生と存分に、納得のいくまで議論を交わすことです。そして、できうることなら先生にご持論を撤回していただきたいと思っています。

哲人:ふふふ。

青年:というのも、風邪の噂に先生の評判を聞きましてね。なんでもこの地に一風変わった哲学者が住んでいて、看過しがたい理想論を唱えているらしい。曰く、人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる、だのと。わたしにとっては、いずれも到底受け入れられない議論です。

それで実際に自分の目で確かめて、少しでもおかしな点があればその誤りを正してさしあげよう、というわけです。…ご迷惑でしょうか?

哲人:いいえ、大いに歓迎します。わたし自身、あなたのような若者の声に耳を傾け、学びを多くしていきたいと願っていたところです。

青年:ありがとうございます。わたしは別に、先生を頭ごなしに否定しようとは思いません。まずは先生のご持論に乗っかった上で、その可能性から考えてみます。

世界はシンプルであり、人生もまたシンプルである。もしもこのテーゼに幾ばくかの真理が含まれるとするなら、それは子どもにとっての生でしょう。子どもには、勤労や納税といった目に見える義務がありません。親や社会に守られながら、毎日を自由気ままに生きています。未来はどこまでも続いていて、自分にはなんでもできるように思える。醜い現実を見なくてすむよう、その目を覆い隠されている。

なるほどたしかに、子どもの目に映る世界はシンプルな姿をしているのでしょう。

しかし、大人になるにつれ、世界はその本性を現していきます。「お前はその程度の人間なのだ」という現実を嫌というほど見せつけられ、人生に待ち受けていたはずのあらゆる可能性が"不可能"へと反転する。幸福なロマンティシズムの季節は終わり、残酷なリアリズムの時代がやってくるわけです。

哲人:なるほど、おもしろい。

青年:それだけではありません。大人になれば複雑な人間関係に絡まれ、多くの責任を押しつけられる。仕事、家庭、あるいは社会的な役割、すべてがそうです。無論、子どものころは理解できなかった差別や戦争、格差といった社会の諸問題も見えてくるし、無視できなくなります。違いますか?

哲人:そうでしょう。続けてください。

青年:さて、宗教が力を持っていた時代であれば、まだ救いもあったでしょう。神の教えこそが真理であり、世界であり、すべてだった。その教えに従ってさえいれば、考えるべき課題も少なかった。しかし宗教は力を失い、いまや神への信仰も形骸化しています。頼れるものがなにもないまま、誰もが不安に打ち震え、猜疑心に凝り固まっている。みんな自分のことだけを考えて生きている。それが現代の社会というものです。

さあ先生、お答えください。あなたはこれだけの現実を前にしてもなお、世界はシンプルだとおっしゃるのですか?

哲人:わたしの答えは変わりません。世界はシンプルであり、人生もまたシンプルです。

青年:なぜです? 誰がどう見ても矛盾に満ちた混沌ではありませんか!

哲人:それは「世界」が複雑なのではなく、ひとえに「あなた」が世界を複雑なものとしているのです。

青年:わたしが?

哲人:人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。あなたが見ている世界は、わたしが見ている世界とは違うし、およそ誰とも共有しえない世界でしょう。

青年:どういうことです? 先生もわたしも同じ時代、同じこの国に生きて、同じものを見ているじゃありませんか。

哲人:そうですね、見たところあなたはお若いようですが、汲み上げたばかりの井戸水を飲んだことはありますか?

青年:井戸水? まあ、ずいぶん昔のことですが、田舎にある祖母の家が井戸を引いていました。夏の暑い日に祖母の家で飲む冷たい井戸の水は、大きな楽しみでしたよ。

哲人:ご存じかもしれませんが、井戸水の温度は年間を通してほぼ18度で一定しています。これは誰が測定しても同じ、客観の数字です。しかし、夏に飲む井戸水は冷たく感じるし、冬に飲むと温かく感じます。温度計では常に18度を保っているのに、夏と冬では感じ方が違うわけです。

青年:つまり、環境の変化によって錯覚してしまう。

哲人:いえ、錯覚ではありません。そのときの「あなた」にとっては、井戸水の冷たさも温かさも、動かしがたい事実なのです。主観的な世界に住んでいるとは、そういうことです。われわれは「どう見ているか」という主観がすべてであり、自分の主観から逃れることはできません。

いま、あなたの目には世界が複雑怪奇な混沌として映っている。しかし、あなた自身が変われば、世界はシンプルな姿を取り戻します。問題は世界がそうであるかではなく、あなたがどうであるか、なのです。

青年:わたしがどうであるか?

哲人:そう。もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見ているのかもしれない。そこから見える世界が暗くなるのは当然です。だったら、暗い世界を嘆くのではなく、ただサングラスを外してしまえばいい。

そこに写る世界は強烈にまぶしく、思わずまぶたを閉じてしまうかもしれません。再びサングラスがほしくなるかもしれません。それでもなお、サングラスを外すことができるか。世界を直視することができるか。あなたにその"勇気"があるか、です。

青年:勇気?

哲人:ええ、これは"勇気"の問題です。

青年:…いや、まあいいでしょう。反論は山ほどありますが、どうやらそれはあと回しにしたほうがよさそうだ。確認ですが、先生は「人は変われる」とおっしゃるのですね? わたしが変われば、世界もシンプルな姿を取り戻す、と。

哲人:もちろん、人は変われます。のみならず、幸福になることもできます

青年:いかなる人も、例外なく?

哲人:ひとりの例外もなく、いまこの瞬間から。

青年:ははっ、大きく出ましたね! おもしろいじゃありませんか、先生。いますぐ論破してさしあげますよ!

哲人:わたしは逃げも隠れもしません。ゆっくりと語り合っていきましょう。あなたの立場は「人は変われない」なのですね?

青年:変われません。現に、わたし自身が変われずに苦しんでいます。

哲人:しかし同時に、あなたは変わりたいとも願っている。

青年:もちろんです。もしも変われるのなら、この人生をやり直せるのなら、わたしは喜んで先生に跪きましょう。もっとも、先生がわたしに躓くことになるやもしれませんが。

哲人:いいでしょう。おもしろいものです。あなたの姿を見ていると、学生時代の自分を思い出します。真理を探して哲学書のもとを訪ね歩いていた、血気盛んな若者だったころの自分の姿を。

青年:ええ、そうです。わたしは真理を探し求めています。人生の真理を。

哲人:これまでわたしは弟子というものをとったことがなく、その必要性を感じたこともありませんでした。しかし、ギリシア哲学の徒となって以来、そして「もうひとつの哲学」と出逢って以来、心のどこかであなたのような若者が訪ねてくるのをずっと待っていたような気がします。

青年:もうひとつの哲学? なんです、それは?

哲人:さあ、あちらの書斎にお入りなさい。長い夜になります。熱いコーヒーでも用意しましょう。

 

本書は、フロイト、ユングと並び「心理学の三大巨頭」と称される、アルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を、「青年と哲人の対話篇」という物語形式を用いてまとめた一冊です。

欧米で絶大な支持を誇るアドラー心理学は、「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに、きわめてシンプルかつ具体的な答え"を提示します。この世界のひとつの真理とも言うべき、アドラーの思想を知って、あなたのこれからの人生はどう変わるのか? もしくは、なにも変わらないのか…。

さあ、青年と共に「扉」の先へと進みましょう━━。

 

第一夜 トラウマを否定せよ

書斎に入ると青年は、猫背ぎみの姿勢のまま書斎に置かれた椅子に腰をかけた。彼はなぜ、これほどにも哲人の持論に拒絶反応を示すのか? 理由は明白だった。青年は幼い頃から自分に自信が持てず、出自や学歴、さらには容姿についても強い劣等感を持っていた。そのおかげだろう、過剰なほど他者の視線を気にしてしまうところがあった。そして他者の幸福を心から祝福することができず、いつも自己嫌悪に陥っていた。青年にとって、哲人の主張はすべてが絵空事でしかなかった。

 

知られざる「第三の巨頭」

青年:さきほど「もうひとつの哲学」という言葉を使われましたね。たしか先生のご専門はギリシア哲学だと聞いていましたが?

哲人:ええ、10代のころから一貫してギリシア哲学と共に生きてきました。ソクラテスからプラトン、アリストテレスといった知の巨人たちです。現在もプラトンの著作を翻訳中ですが、古代ギリシアの探求は生涯終わることがないでしょう。

青年:じゃあ、「もうひとつの哲学」とはなんなのです?

哲人:オーストリア出身の精神科医、アルフレッド・アドラーが20世紀初頭に創設した、まったく新しい心理学です。わが国では現在、その創始者の名をとって「アドラー心理学」と呼ぶことが一般的になっています。

青年:ほほう、それは意外だ。ギリシア哲学の専門家が、心理学ですか。

哲人:他の心理学がどんな姿であるのか、わたしはよくわかりません。しかし、アドラー心理学に関していえば、明らかにギリシア哲学と地続きにある思想であり、学問といえるでしょう。

青年:フロイトやユングの心理学者なら、わたしにも多少の心得はありますよ。たしかにおもしろい研究分野です。

哲人:ええ、フロイトたユングの存在はわが国でも有名ですね。もともとアドラーは、フロイトが主宰するウィーン精神分析協会のメンバーとして活躍した人でした。しかし、学説上の対立から袂を分かち、独自の理論に基づく「個人心理学」を提唱します。

青年:個人心理学? また妙な名前ですね。要するにそのアドラーなる人物は、フロイトのお弟子さんなのですね?

哲人:いえ、弟子ではありません。よく誤解されるのですが、ここは明確に否定しておかねばならないところです。アドラーとフロイトは比較的年齢が近かったこともあり、対等な研究者として関係を結んでいました。この点、フロイトのことを父親のように慕っていたユングとは大きく異なります。また、わが国で心理学というとフロイトやユングの名前ばかりが取り上げられますが、世界的にはフロイト、ユングと並ぶ三大巨頭のひとりとして、アドラーの名前もかならず言及されます。

青年:なるほど。それは勉強不足でした。

哲人:あなたがアドラーを知らなかったことは当然かもしれません。アドラー自身、こんなことをいっています。「わたしの名前を誰も思い出さなくなるときがくるかもしれない。アドラー派が存在したことすら、忘れられてしまうかもしれない」。しかし彼は、それでもかまわない、といいます。アドラー派の存在そのものが忘れられること、それは彼の思想が一学問から脱皮して、人々のコモンセンス(共通感覚)となることを意味するからです。

青年:学問のための学問ではない、ということですね?

哲人:ええ。たとえば、世界的ベストセラーの『人を動かす』や『道は開ける』で知られるデール・カーネギーも、アドラーのことを「一生を費やして人間とその潜在能力を研究した偉大な心理学者」だと紹介していますし、彼の著作にはアドラーの思想が色濃く反映されています。同じく、スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』でもアドラーの思想に近い内容が語られています。つまりアドラー心理学は、堅苦しい学問ではなく、人間理解の真理、また到達点として受け入れられている。しかしながら、時代を100年先行したともいわれるアドラーの思想には、まだまだ時代が追いつききれていません。彼の考えは、それほど先駆的なものでした。

青年:つまり先生は、ギリシア哲学だけでなく、そのアドラー心理学とやらの見地からも、ご持論を展開されると?

哲人:そういうことです。

青年:わかりました。もうひとつ、基本的な立ち位置についてお聞きしておきます。先生は哲学者なのですか? それとも心理学者なのですか?

哲人:わたしは哲学者です。哲学に生きる人間です。そしてわたしにとってのアドラー心理学とは、ギリシア哲学と同一線上にある思想であり、哲学です。

青年:いいでしょう。では、さそっそくはじめます。

 

なぜ「人は変われる」なのか

青年:最初に議論を整理しておきましょう。先生は「人は変われる」とおっしゃる。のみならず、誰しも幸福になることができる、と。

哲人:ええ、ひとりの例外もなく。

青年:幸福についての議論は後回しにして、まずは「変わること」について伺っていきましょう。人は誰しも、変わりたいと願っているものです。わたしだってそうですし、道ゆく誰に聞いても同じ答えが返ってくるでしょう。しかし、どうしてみんなが「変わりたい」と思っているのでしょうか? 答えはひとつ、みんなが変われずにいるからです。もしも簡単に変われるのなら、わざわざ「変わりたい」などとは願いません。

人は変わりたくても変われない。だからこそ、変われることを説く新興宗教や怪しげなセミナーにだまされる人が後を絶たない。違いますか?

哲人:では、逆にききましょう。あなたはなぜ、そうも頑なに人は変われないと主張されるのですか?

青年:なぜって、つまり、こういうことですよ。わたしの友人に、もう何年も自室にこもりっきりになっている男がいます。彼は外に出たいと願っているし、できることなら仕事を持ちたいとも思っている。いまの自分を「変えたい」と思っているわけです。友人として保証しますが、彼はきわめて真面目で、社会に有用な男です。

しかし、彼は部屋の外に出るのが恐ろしい。一歩でも外に出ると動悸がはじまり、手足が震える。一種の神経症なのでしょう。かわりたくても、変われないのです。

哲人:あなたは彼が外に出られなくなった理由は、どこにあると思いますか?

青年:詳しいことはわかりません。ご両親との関係、あるいは学校や職場でいじめを受け、それがトラウマになっているのかもしれない。いや、もしかしたら逆に甘やかされて育ったところがあるのかもしれないな。まあ、彼の過去や家庭の事情までは窺い知ることはできません。

哲人:いずれにせよ、ご友人の「過去」に、トラウマなり何なりの「原因」となる出来事があった。その結果、彼は外に出られなくなったのだ。そうおっしゃるわけですね。

青年:もちろんですとも。結果の前には、原因がある。なんの不思議があります。

哲人:では仮に、そとに出られなくなった原因が幼いころの家庭環境にあったとしましょう。両親から虐待を受けて育ち、愛情を知らないまま大人になっていった。だから他者と交わるのが怖いし、外に出られないのだ、と。ありえる話ですね?

青年:大いにありえる話です。ひどいトラウマになるでしょう。

哲人:そしてあなたは「あらゆる結果の前には、原因がある」とおっしゃる。要するに、現在のわたし(結果)は、過去の出来事(原因)によって規定されたのだ、と。その理解でよろしいですね?

青年:もちろん。

哲人:さて、もしもあなたのおっしゃるように、あまねく人の「現在」が、「過去」の出来事によって規定されるのだとすれば、おかしなことになりませんか?

だってそうでしょう、両親から虐待を受けて育った人は、すべてがご友人と同じ結果、すなわち引きこもりになっていないとつじつまが合わない。過去が現在を規定する、原因が結果を支配するとは、そういうことでしょう。

青年:…なにをおっしゃりたいのです?

哲人:過去の原因にばかり目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、おのずと「決定論」に行き着きます。すなわち、われわれの現在、そして未来は、すべてが過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものである、と。違いますか?

青年:では、過去など関係ないと?

哲人:ええ、アドラー心理学の立場です。

青年:なるほど、さっそく対立点が明確になってきました。しかしですよ先生、いまのお話だと、わたしの友人はなんの理由もなしに外に出られなくなったことになってしまいませんか? なにせ先生は、過去の出来事など関係ない、とおっしゃるのですから。申し訳ありませんが、それはぜったいにありえない話です。彼が引きこもっている背景には、なにかしらの理由がある。でなければ、説明がつかないでしょう!

哲人:ええ、たしかに説明がつきません。そこでアドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。

青年:いまの目的?

哲人:ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情をつくり出している」と考えるのです。

青年:はっ?

哲人:つまり、ご友人には「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。アドラー心理学では、これを「目的論」と呼びます。

青年:ご冗談を! 不安や恐怖をこしらえた、ですって? じゃあ先生、あなたはわたしの友人が仮病を使っているとでもいうのですか?

哲人:仮病ではありません。ご友人がそこで感じている不安や恐怖は本物です。場合によっては割れるような頭痛に苦しめられたり、猛烈な腹痛に襲われることもあるでしょう。しかし、それらの症状もまた、「外に出ない」という目的を達成するためにつくり出されたものなのです。

青年:ありえません! そんな議論はオカルトです!

哲人:違います。これは「原因論」と「目的論」の違いです。あなたのおっしゃる話は、すべてが原因論に基づいています。われわれは原因論の住人であり続けるかぎり、一歩も前に進めません

 

トラウマは、存在しない

青年:そこまで強くおっしゃつのなら、しっかり説明していただきましょう。そもそも、「原因論」と「目的論」の違いとはどういうことです?

哲人:たとえば、あなたが風邪で高熱を出して医者に診てもらったとします。そして医者が「あなたが風邪をひいたのは、昨日薄着をして出かけたからです」と、風邪をひいた理由を教えてくれたとしましょう。さて、あなたはこれで満足できますか?

青年:できるはずもないでしょう。理由が薄着のせいであろうと、雨に降られたせいであろうと、そんなことはどうでもいい。問題は、いま高熱に苦しめられているという事実であり、症状です。医者であるならば、ちゃんと薬を処方するなり、注射を打つなり、なにかしらの専門的処置をとって、治療してもらわなければなりません。

哲人:ところが原因論に立脚する人々、たとえば一般的なカウンセラーや精神科医は、ただ「あなたが苦しんでいるのは、過去のここに原因がある」と指摘するだけ、また「だからあなたは悪くないのだ」と慰めるだけで終わってしまいます。いわゆるトラウマの議論などは、原因論の典型です。

青年:ちょっと待ってください! つまり先生、あなたはトラウマの存在を否定されるのですか?

哲人:断固として否定します。

青年:なんと! 先生は、いやアドラーは、心理学の大家なのでしょう!?

哲人:アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。ここは非常に新しく、画期的なところです。たしかにフロイト的なトラウマ議論は、興味深いものでしょう。心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考える。人生を大きな「物語」としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックな展開には心をとらえて離さない魅力があります。

しかし、あそらーはトラウマの議論を否定するなかで、こう語っています。「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック━━いわゆるトラウマ━━に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」と。

青年:目的にかなうものを見つけ出す?

哲人:そのとおりです。アドラーが「経験それ自体」ではなく、「経験に与える意味」によって自らを決定する、と語っているところに注目してください。たとえば大きな災害に見舞われたとか、幼いころに虐待を受けたといった出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません。影響は強くあります。しかし大切なのは、それによってなにかが決定されるわけではない、ということです。われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです

青年:じゃあ、先生はわたしの友人が好きこのんで自室に閉じこもっているとでも? 自ら閉じこもることを選んだとでも? 冗談じゃありません。自分で選んだのではなく、選ばされたのです。いまの自分を、選択せざるをえなかったのです!

哲人:違います。仮にご友人が「自分は両親に虐待を受けたから、社会に適合できないのだ」と考えているのだとすれば、それは彼のなかにそう考えたい「目的」があるのです。

青年:どんな目的です?

哲人:直近のものとしては「外に出たい」という目的があるでしょう。外に出ないために、不安や恐怖をつくり出している。

青年:どうして外に出たくないのですか? 問題はそこでしょう!

哲人:では、あなたが親だった場合を考えてください。もしも自分の子どもが部屋に引きこもっていたら、あなたはどう思いますか?

青年:それはもちろん心配しますよ。どうすれば社会復帰してくれるのか、どうすれば元気を取り戻してくれるのか、そして自分の子育ては間違っていたのか。真剣に思い悩むだろうし、社会復帰に向けてありとあらゆる努力を試みるでしょう。

哲人:問題はそこです。

青年:どこです?

哲人:外に出ることなく、ずっと自室に引きこもっていれば、親が心配する。親の注目を一身に集めることができる。まるで腫れ物に触るように、丁重に扱ってくれる。

他方、家から一歩でも外に出てしまうと、誰からも注目されない「その他大勢」になってしまいます。見知らぬ人々に囲まれ、凡庸なわたし、あるいは他者より見劣りしたわたしになってしまう。そして誰もわたしを大切に扱ってくれなくなる。…これなどは、引きこもりの人によくある話です。

青年:じゃあ先生の理屈に従うのなら、わたしの友人は「目的」を成就しており、いまの状態に満足している、となるのですか?

哲人:不満はあるでしょうし、幸福というわけではないでしょう。しかし、彼が「目的」に沿った行動をとっていることは間違いありません。彼にかぎった話ではなく、われわれはみな、なにかしらの「目的」に沿って生きている。それが目的論です。

青年:いやいや、到底納得できませんね。そもそもわたしの友人は…。

哲人:まあ、このままご友人のお話を続けても議論は平行線でしょう。欠席裁判になるのはよくありません。別の事例で考えましょう。

青年:では、こんな例はいかがですか? ちょうど機能経験した、わたし自身の話です。

哲人:ほう、お聞かせください。

 

人は怒りを捏造する

青年:昨日の午後、喫茶店で本を読んでいたとき、通りかかったウェイターがわたしの上着にコーヒーをこぼしてしまいました。買ったばかりの、いわゆる一張羅です。カットなったわたしは、思わず大声で怒鳴りつけました。普段のわたしは、公の場で大声を出すことなどありません。しかし、昨日ばかりは店中に響きわたるくらいの大声で怒鳴り散らしてしまった。怒りに駆られ、我を忘れてしまったわけです。さあどうです、ここにも「目的」とやらが入り込む余地はありますか? これはどう考えても「原因」ありきの行動でしょう。

哲人:つまり、あなたは怒りの感情に突き動かされて、怒鳴ってしまった。普段は温厚な性格なのに、怒りの感情に抗することができなかった。自分にはどうすることもできない不可抗力だった。そうおっしゃるわけですね?

青年:ええ。あまりに突発的な出来事でしたからね。考えるよりも先に声が出てしまったのです。

哲人:では仮に、昨日のあなたが偶然刃物を持っていたとして、カッとなったはずみに相手を刺してしまったとします。その場合も「自分にはどうすることもできなかった、これは不可抗力なのだ」と弁明できますか?

青年:そ、それは極論です!

哲人:極論ではありません。あなたの理屈を突き進めると、怒りに駆られた犯行はすべてが「怒り」のせいであって、当人の責任ではなくなってしまいます。なにしろ、人は感情に抗うことができないとおっしゃるのですから。

青年:じゃあ先生はわたしの怒りを、どう説明するおつもりです?

哲人:簡単です。あなたは「怒りに駆られて、大声を出した」のではない。ひとえに「大声を出すために、怒った」のです。つまり、大声を出すという目的をかなえるために、怒りの感情をつくりあげたのです。

青年:なんですって?

哲人:あなたは大声を出す、という目的が先にあった。すなわち、大声を出すことによって、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分のいうことをきかせたかった。その手段として、怒りという感情を捏造したのです。

青年:捏造した? 冗談じゃありません!

哲人:では、どうして大声をあげたのです?

青年:だからそれは、カッとしてしまったからですよ。

哲人:違います。わざわざ大声をあげなくても、言葉で説明すればウェイターは丁重にお詫びもしたでしょうし、きれいな布巾で拭き取るなど、しかるべき措置もとったはずです。あるいはクリーニングの手配さえしてくれたかもしれない。しかも、あなたは彼がそうするであろうことを心のどこかで予期していた。

にもかかわらず、あなたは大声をあげたのです。言葉で説明する手順を面倒に感じ、無抵抗な相手を、より安直な手段で屈服させようとした。その道具として、怒りの感情を使ったのです。

青年:…いや、騙されません、わたしは騙されませんよ! 相手を屈服させるために怒りの感情をこしらえた? 断言しますが、そんなことを考える余裕など一秒たりともありませんでした。わたしは考えをめぐらせてから怒ったのではありません。怒りとは、もっと突発的な感情です!

哲人:そう、怒りは一瞬の感情です。こんな話があります。あるとき、母親と娘が大声をあげて口論していたそうです。すると突然、電話のベルが鳴りました。「もしもし?」慌てて受話器をとった母親の声には、まだ怒りの感情がこもっています。ところが電話の主は、娘が通う学校の担任教師でした。そうと気づいた途端、母親の声色は丁寧なものに変化します。そのままよそ行きの声で5分ほど、会話を交わし、受話器を置きました。と同時に、再び血相を変えて娘に怒鳴りはじめたのです。

青年:別に、よくある話でしょう。

哲人:わかりませんか? 要するに、怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです。電話がかかってくれば瞬時に引っ込めることもできるし、電話を切れば再び持ち出すこともできる。この母親は怒りを抑えきれずに怒鳴っているのではありません。ただ大声で娘を威圧するため、それによって自分の主張を押し通すために、怒りの感情を使っているのです。

青年:怒りは、目的を達成するための手段だと?

哲人:目的論とは、そういうことです。

青年:…いやはや先生、あなたは優しそうな仮面を被って、相当に怖ろしいニヒリストですね! 怒りの話にしろ、引きこもった友人の話にしろ、すべての洞察が人間への不信感に充ち満ちている!

 

過去に支配されない生き方

哲人:どこがニヒリズムなのでしょう?

青年:考えてもごらんなさい。要するに先生は、人間の感情を否定されているわけです。感情などただの道具にすぎない、目的を達成するための手段にすぎないのだ、と。しかし、いいですか先生。感情を否定すること、それはわれわれの人間性をも否定せんとする議論です! われわれは感情があるからこそ、喜怒哀楽に揺さぶられるからこそ、人間なのです! もしも感情を否定されるのなら、人間は出来損ないの機械になってしまう。これをニヒリズムと呼ばずして、なんと呼びますか!

哲人:わたしは感情の存在を否定しているのではありません。誰にでも感情はあります。当たり前のことです。しかし、もしも「人は感情に抗えない存在である」とおっしゃるのでしたら、そこは明確に否定します。われわれは感情に支配されて動くのではありません。そして、この「人は感情に支配されない」という意味において、さらには「過去にも支配されない」という意味において、アドラー心理学はニヒリズムの対極にある思想であり、哲学なのです。

青年:感情に支配されず、過去にも支配されない?

哲人:たとえばある人の過去に、両親の離婚という出来事があったとしましょう。これは18度の井戸水と同じ、客観の話ですね? 一方、その出来事を冷たいと感じるか温かいと感じるか。これは「いま」の、そして主観の話です。過去にどんな出来事があったとしても、そこにどんな意味づけをほどこすかによって、現在のあり方は決まってくるのです。

青年:問題は「なにがあったか」ではなく、「どう解釈したか」であると?

哲人:まさに。われわれはタイムマシンで過去にさかのぼることなどできませんし、時計の針は巻き戻せません。もしもあなたが原因論の住人になってしまえば、過去に縛られたまま、この先ずっと幸せになることができなくなります。

青年:そうですよ! 過去は変えられないからこそ、この生は苦しいのです!

哲人:苦しいだけではありません。過去がすべてを決定し、過去が変えられないのであれば、今日を生きるわれわれは人生に対してなんら有効な手立てを打てなくなってしまう。その結果、どうなりますか? 世界に絶望し、人生をあきらめるようなニヒリズムやペシミズムに行き着くことになるでしょう。トラウマの語論に代表されるフロイト的な原因論とは、かたちを変えた決定論であり、ニヒリズムの入口なのです。あなたはそんな価値観をお認めになりますか?

青年:そりゃあ、わたしだって認めたくありません。認めたくはありませんが、過去の力は強いですよ!

哲人:可能性を考えるのです。もしも人間が変われる存在だとするなら、原因論に基づく価値観などありえず、おのずと目的論に立脚せざるをえないと。

青年:あくまでも「人は変われる」を前提に考えよ、とおっしゃるのですね?

哲人:もちろんです。われわれの自由意志を否定し、人間を機械であるかのように見なしているのは、むしろフロイト的な原因論なのだと理解してください。

 

青年は哲人の書斎をぐるりと見渡した。壁一面が本棚に覆われ、木製の小さな机の上には書きかけの原稿らしきものと万年筆が置かれている。人は過去の原因に突き動かされるのではなく、自らの定めた目的に向かって動いていく。それが哲人の主張だ。彼の唱える「目的論」は、真っ当な心理学の因果律が根底から覆す考えであり、青年としては到底受け入れることができなかった。さて、どこから切り崩していくべきか。青年は大きく息を吸い込んだ。

 

ソクラテスとアドラー

青年:わかりました。では、別の友人の話をしましょう。わたしの友人に、いつも明るくて初対面の誰とでも屈託なく話せる、Yという男がいます。みんなから愛され、周囲の人々を一瞬で笑顔にしてしまう、ひまわりのような男です。一方、わたしはどうにも人付き合いが苦手ですし、いろいろろ屈折したところのある人間です。さて、先生はアドラーの目的論によって「人は変われる」と主張されるわけですね?

哲人:ええ。わたしもあなたも、人は誰でも変われます。

青年:では先生、わたしはYnoyouna人間になれるとお考えですか? 無論、わたしはYのようになりたいと、心から願っているのですが。

哲人:この段階で申し上げるとするなら、およそ無理な相談でしょう。

青年:ははっ、ついに尻尾を出しましたね! ご持論を撤回されるわけですか?

哲人:いえ、そうではありません。残念ながらあなたは、まだアドラー心理学をほとんど理解されていない。変わることの第一歩は、知ることにあります

青年:だったら、アドラー心理学のなんたるかを理解しさえすれば、わたしもYのような人間になれると?

哲人:なぜそう答えを急ぐのです? 答えとは、誰かに教えてもらうものではなく、自らの手で導きだしていくべきものです。他者から与えられた答えはしょせん対症療法にすぎず、なんの価値もありません。

たとえばソクラテスは、自身の手による著作は1冊も残しませんでした。彼はひたすらアテナイの人々、特に若者たちと路上での議論を重ね、その哲学を著作という形で後世に残したのは弟子のプラトンです。そしてアドラーもまた、著述活動にほとんど関心を示さず、ウィーンのカフェで人々と対話したり、小さなディスカッショングループで議論することを好んだ人物でした。決して肘掛け椅子に座る知識人ではなかったのです。

青年:ソクラテスもアドラーも、対話を通じて気づきを与えていたと?

哲人:そのとおりです。あなたの抱いているさまざまな疑問は、すべてがこの対話のうちに解消されていくでしょう。そしてあなたは変わっていくでしょう。わたしの言葉によってではなく、あなた自身の手によって。わたしは対話を通じて答えを導き出していく、そお貴重なプロセスを奪いたくないのです。

青年:つまり、ソクラテスやアドラーが交わしてきたような対話を、われわれふたりで再現しようというわけですね? この小さな書斎で。

哲人:ご不満ですか?

青年:なにが不満なものですか、望むところです! 先生がご持論を撤回されるまで、あるいはわたしが跪くまで、いくらでも続けましょう。

 

あなたは「このまま」でいいのか

哲人:では議論を戻しましょう。あなたはYさんのように、もっと明るい人間いなりたいわけですね?

青年:しかし先生は、無理な相談だと一蹴された。まあ、これは実際そのとおりでしょう。先生を困らせたくて聞いてみただけで、あんな人間になれっこないことくらい、自分でもわかっています。

哲人:なぜそう思われるのですか?

青年:簡単です。それが性格の違い、もっといえば気質の違いだからです。

哲人:ほほう。

青年:たとえば先生は、これだけたくさんの本に囲まれて生きている。新しい本を読んで、新しい知識を仕入れる。いわば、知識が積み上げられていくわけです。読めば読むほど知識の量は増えていく。新しい価値観を手に入れ、自分が変わるような気がする。

しかしですね、先生。残念ながらどんなに知識を積み重ねたところで、その土台にある気質や性格は変わらないんですよ! 土台が斜めに傾いていたら、いかなる知識も役に立たない。そう、積み上げたはずの知識もガラガラと崩れ落ち、気がつけば元通りの自分になっていくんです! アドラーの思想も同じです。わたしが彼についてどれだけ知識を積み重ねようと、わたしの性格までは変わらない。知識は知識として積み重ねられ、やがて打ち捨てられるのです!

哲人:では、こう聞きましょう。そもそもあなたは、どうしてYさんのような人間になりたいと思うのですか? Yさんであれ、あるいは他の誰かであれ、あなたは別人になりたがっているわけです。その「目的」とはなんでしょうか?

青年:また「目的」の話ですか。先ほども申し上げたでしょう、わたしはYのことが好きだし、もしも彼のようになれたら幸せだと思うからですよ。

哲人:彼のようになれたら幸せだと思う。ということはつまり、あなたはいま幸せではないわけですね?

青年:なっ…!!

哲人:あなたはいま、幸せを実感できずにいる。なぜなら、あなたは自分を愛することができていない。そして自分を愛するための手段として、「別人への生まれ変わり」を望んでいる。Yさんのようになって、いまの自分を捨てようとしている。違いますか?

青年:…ええ、そのとおりですよ! 認めましょう、わたしは自分が嫌いです! いま、こうして先生と時代遅れの哲学談議に戯れている自分、そうせざるをえない自分を含めて、大っ嫌いですね!

哲人:かまいません。自分のことを好きかと聞かれて、胸を張って「好きだ」といえる人はなかなかいないものです。

青年:先生はいかがです? 自分のことがお好きですか?

哲人:少なくとも別人になりたいとは思いませんし、自分が「このわたし」であることを受け入れています。

青年:自分が「このわたし」であることを?

哲人:いいですか、どれほどYさんになりたくとも、Yさんとして生まれ変わることはできません。あなたはYさんではない。あなたは「あなた」であっていいのです。

しかし、「このままのあなた」でいていいのかというと、それは違います。もしも幸せを実感できずにいるのであれば、「このまま」でいいはずがない。立ち止まることなく、一歩前に踏み出さないといけません。

青年:手厳しいお話ですが、たしかにそうです。このままわたしでいいはずがない。前に進まなければならない。

哲人:再びアドラーの言葉を引用しましょう。彼はいいます。「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」と。あなたがYさんになり、他の誰かになりたがっているのは、ひとえに「なにが与えられているか」にばかり注目しているからです。そうではなく、「与えられたものをどう使うか」に注目するのです。

 

あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの

青年:いや、いや、それは無理です。

哲人:なぜ無理なのです?

青年:なぜって、裕福で優しい両親のもとに生まれる人間もいれば、貧しくて底意地の悪い両親のもとに生まれる人間もいる。それが世の中ってものだからですよ。さらに、こんな話はしたくありませんが、この世界は平等ではなく、人種や国籍、民族の違いだって、いまだ歴然と横たわっているわけです。「なにが与えられているか」に注目するのは当たり前でしょう! 先生、あなたのお話は机上の学説ばかりで、現実の世界を無視しておられます!

哲人:現実を無視しているのはあなたです。「なにが与えられているか」に執着して、現実が変わりますか? われわれは交換可能な機械ではありません。われわれに必要なのは交換ではなく、更新なのです。

青年:わたしにとっては交換も更新も同じです! 先生は肝心なところで逃げ回っておわれる。いいですか、生まれながらの不幸は存在する。まずはそこを認めてください。

哲人:認めません。

青年:なぜです!?

哲人:たとえばいま、あなたは幸せを実感できずにいるのでしょう。生きづらいと感じることもあるし、いっそ別人に生まれ変わりたいとさえ願っている。しかし、いまのあなたが不幸なのは自らの手で「不幸であること」を選んだからなのです。不幸の星の下に生まれたからではありません。

青年:不幸であることを、自らの手で選んだ? そんな話、どう信じろと!?

哲人:なんら突飛な話ではありません。古代ギリシアの時代からいわれていることです。あなたは「誰ひとりとして悪を欲する人はいない」という言葉をご存知ですか? 一般に、ソクラテスのパラドクスとして知られる命題ですが。

青年:悪を欲する人など、山のようにいるじゃありませんか。強盗や殺人犯はもちろん、政治家や役人の不正だってそうです。むしろ、悪を欲しない清廉潔白な善人を探すほうがむずかしいくらいでしょう。

哲人:たしかに、行為としての悪は、山のように存在します。しかし、いかなる犯罪者であれ、純粋に悪事としての悪事を働こうと思って犯行に手を染める者などいません。すべての犯罪者には、犯行に手を染めるだけの内的な「しかるべき理由」があります。たとえば、金銭絡みの怨恨によって殺人を犯したとする。これだって当人にとっては「しかるべき理由」あってのことであり、言葉を換えるなら「善」の遂行なのです。もちろん、道徳的な意味での善ではなく、「自分のためになる」という意味での善、ですが。

青年:自分のためになる?

哲人:ギリシア語の「善」(agathon)という言葉には、道徳的な意味合いはありません。ただ「ためになる」という意味です。一方、「悪」(kakon)という言葉には、「ためにならない」という意味があります。この世界には、不正や犯罪などさまざまな悪行がはびこっています。しかし、純粋な意味での「悪=ためにならないこと」を欲する者など、ひとりもいないのです。

青年:…それがわたしとどう関係するのです?

哲人:あなたは人生のどこかの階段で、「不幸であること」を選ばれた。それは、あなたが不幸な境遇に生まれたからでも、不幸な状況に陥ったからでもありません。「不幸であること」がご自身にとっての「善」だと判断した、ということなのです。

青年:なぜ! なんのために!

哲人:あなたにとっての「しかるべき理由」がなんだったのか。なぜ自ら「不幸であること」を選んだのか。その詳細までは、わたしにもわかりません。おそらく、この対話のなかで明らかになっていくでしょう。

青年:…先生、あなたはわたしをペテンにかけようとしている! 認めるものですか、そんな哲学、わたしはぜったいに認めませんよ!

 

青年は思わず椅子から立ち上がり、目の前の哲人を睨みつけた。この不幸なる生は、わたしが自発的に選んだものだと? それがわたしにとっての「善」だっただと? なんという暴論だろうか! そもそもなぜ、ここまでわたしを愚弄するのか。わたしがいったいなにをしたというのだ。是が非でも論破してやる。わが足元に跪かせてやる。青年の顔はみるみる紅潮していった。

 

人は常に「変わらない」という決心をしている

哲人:おかけなさい。このままでは話が噛み合わないのも無理はありません。ここで簡単に、議論のベースとなる部分、つまりアドラー心理学が人間をどのように理解しているかについて説明しておきましょう。

青年:手短に! 手短にお願いします!

哲人:先ほどあなたは「人の性格や気質は変えられない」といいました。一方、アドラー心理学では、性格や気質のことを「ライフスタイル」という言葉で説明します。

青年:ライフスタイル?

哲人:ええ。人生における、思考や行動の傾向です。

青年:思考や行動の、傾向?

哲人:その人が「世界」をどう見ているか。また「自分」のことをどう見ているか。これらの「意味づけのあり方」を集約させた概念が、ライフスタイルなのだと考えてください。狭義的には性格とすることもできますし、もっと広く、その人の世界観や人生観まで含んだ言葉になります。

青年:世界観とは?

哲人:たとえば「わたしは悲観的な性格だ」と思い悩んでいる人がいたとしましょう。その言葉を「わたしは悲観的な"世界観"を持っている」と言い換えてみる。問題は自分の性格ではなく、自分の持っている世界観なのだと考える。性格という言葉には、変えられないものだというニュアンスがあるかもしれません。しかし、世界観であれば、変容させていくことも可能でしょう。

青年:ううむ、少しむずかしいな。そのライフスタイルとは、つまり「生き方」に近い話なのでしょうか?

哲人:そういう表現もありえるでしょう。もう少し正確にいうなら「人生のあり方」という意味ですね。きっとあなたは、気質や性格は自分の意思とは無関係に備わるものと考えているはずです。しかしアドラー心理学では、ライフスタイルは自ら選びとるものだと考えます。

青年:自ら選びとるもの?

哲人:ええ。あなたはあたなのライフスタイルを、自ら選んだのです。

青年:つまり、わたしは「不幸であること」を選んだばかりでなく、このひねくれた性格までも自らの手で選んだのだと?

哲人:もちろんです。

青年:ははっ、いくらなんでもその議論には無理がありますよ。わたしは気がついたときには、こんな性格になっていました。選んだ覚えなど、まったくありません。先生だってそうでしょう? 自分の性格を自在に選択できるだなんて、それこそロボットみたいな話じゃありませんか!

哲人:もちろん、意識的に「こんなわたし」を選んだわけではないでしょう。最初の選択は無意識だったかもしれません。しかも、その選択にあたっては、あなたが再三おっしゃるような外的要因、すなわち人種や国籍、文化、また家庭環境といったものも大いに影響しています。それでもなお、「こんなわたし」を選んだのはあなたなのです。

青年:意味がわからない。いったい、どこで選んだというのです?

哲人:およそ10歳前後だというのが、アドラー心理学の見解です。

青年:じゃあ百歩譲って、いや二百歩譲って、10歳のわたしが無意識ながらもそのライフスタイルとやらを自分で選んだのだとしましょう。けれど、いったいそれがどうしたというのです? 言葉が正確であれ、気質であれ、あるいはライフスタイルであれ、わたしはすでに「こんなわたし」になってしまったのです。事態はなにも変わらないじゃありませんか。

哲人:そんなことはありません。もしもライフスタイルが先天的に与えられたものではなく、自分で選んだものであるのなら、再び自分で選びなおすことも可能なはずです。

青年:選びなおす?

哲人:あなたはこれまで自らのライフスタイルを知らなかったかもしれない。そしてライフスタイルという概念さえ、知らなかったかもしれない。もちろん、自らの生まれを選ぶことは誰にもできません。この国に生まれること、この時代に生まれること、この両親のもとに生まれること、すべて自分で選んだものではない。しかもそれらは、かなり大きな影響力を持っている。不満もあるでしょうし、他者を見て「あんな境遇に生まれたかった」と思う気持ちも出てくるでしょう。

でも、そこで終わってはいけないのです。問題は過去ではなく、現在の「ここ」にあります。いま、あなたはここでライフスタイルを知ってしまった。であれば、この先どうするのかはあなたの責任なのです。これまでどおりのライフスタイルを選び続けることも、新しいライフスタイルを選びなおすことも、すべてはあなたの一存にかかっています。

青年:では、どうやって選びなおせというのです? 「お前はそのライフスタイルを自分で選んだのだから、いますぐ選びなおせ」といわれたところで、即座に変われるわけじゃないでしょう!

哲人:いえ、あなたは変われないのではありません。人はいつでも、どんな環境に置かれていても変われます。あなたが変われないのでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです。

青年:なんですって?

哲人:人は常に自らのライフスタイルを選択しています。いま、こうして膝を突き合わせて話しているこの瞬間にも、選択しています。あなたはご自分のことを、不幸な人間だとおっしゃる。いますぐ変わりたいとおっしゃる。別人に生まれ変わりたいとさえ、訴えている。にもかかわらず変われないでいるのは、なぜなのか? それはあなたがご自分のライフスタイルを変えないでおこうと、不断の決心をしているからなのです。

青年:いやいや、まったく筋の通らない話じゃありませんか。わたしは変わりたい。これは嘘偽りのない本心です。なのにどうして変わらない決心をするのです!?

哲人:少しくらい不便で不自由なところがあっても、いまのライフスタイルのほうが使いやすく、そのまま変えずにいるほうが楽だと思っているのでしょう。

もしも「このままのわたし」であり続けていれば、目の前の出来事にどう対処すればいいか、そしてその結果どんなことが起こるのか、経験から推測できます。いわば、乗り慣れた車を運転しているような状態です。多少のガタがきていても、織り込み済みで乗りこなすことができるわけです。

一方、新しいライフスタイルを選んでしまったら、新しい自分になにが起きるかもわからないし、目の前の出来事にどう対処すればいいかもわかりません。未来が見通しづらくなるし、不安だらけの生を送ることになる。もっと苦しく、もっと不幸な生が待っているのかもしれない。つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのです

青年:変わりたいけど、変わるのが怖ろしいと?

哲人:ライフスタイルを変えようとするとき、われわれは大きな"勇気"を試されます。変わることで生まれる「不安」と、変わらないことでつきまとう「不満」。きっとあなたは後者を選択されたのでしょう。

青年:…いま、また"勇気"という言葉を使われましたね。

哲人:ええ。アドラー心理学は、勇気の心理学です。あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ"勇気"が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。

 

あなたの人生は「いま、ここ」で決まる

青年:幸せになる勇気…。

哲人:もっと説明が必要ですか?

青年:いや、待ってください。なんだか頭が混乱してきましたよ。まず先生は、世界はシンプルなところだとおっしゃる。世界が複雑に見えるのは、「わたし」の主観がそうさせているのだと。人生が複雑なのではなく、「わたし」が人生を複雑にし、それゆえ幸福に生きることを困難にしているのだと。

そしてフロイト的な原因論ではなく、目的論に立脚すべきだともいいましたね。過去に原因を求めてはいけない、トラウマを否定せよ、人は過去の原因に突き動かされる存在ではなく、なにかしらの目的を達成するために動いているのだと。

哲人:ええ。

青年:さらには目的論の大前提として「人は変われる」とおっしゃる。人は常に自らのライフスタイルを選択していると。

哲人:そのとおりです。

青年:わたしが変われずにいるのは、他ならぬわたし自身が「変わらない」という決心をくり返しているからだ。わたしには新しいライフスタイルを選ぶ勇気が足りていない。つまり、「幸せになる勇気」が足りていない。だからこそわたしは不幸なのだ。以上の理解で間違っていませんね?

哲人:間違っていません。

青年:そうなると問題は「どうすればライフスタイルを変えることができるか」という具体的な方策です。そこはまだ説明されていません。

哲人:たしかに。あなたがいま、いちばん最初にやるべきことはなにか。それは「いまのライフスタイルをやめる」という決心です。

たとえば先ほど、あなたは「もしもYのような人間になれたら、幸せになれる」といいました。そうやって「もしも何々だったら」と可能性のなかに生きているうちは、変わることなどできません。なぜなら、あなたは変わらない自分への言い訳として「もしもYのような人間になれたら」といっているのです。

青年:変わらない自分への言い訳?

哲人:わたしの輪かい友人に、小説家になることを夢見ながら、なかなか作品を書き上げられない人がいます。彼によると、仕事が忙しくて小説を書く時間もままならない、だから書き上げられないし、賞の応募に至らないのだそうです。

しかし、はたしてそうでしょうか。実際のところは、応募しないことによって「やればできる」という可能性を残しておきたいのです。人の評価にさらされたくないし、ましてや駄作を書き上げて落選する、という現実に直面したくない。時間さえあればできる、環境さえ整えば書ける、自分にはその才能があるのだ、という可能性のなかに生きていたいのです。おそらく彼は、あと5年10年もすれば「もう若くないから」とか「家庭もできたから」と別の言い訳を使いはじめるでしょう。

青年:…彼の気持ち、わたしには痛いほどよくわかりますよ。

哲人:賞に応募して、落選するならしればいいのです。そうすればもっと成長できるかもしれないし、あるいは別の道に進むべきだと理解するかもしれない。いずれにせよ、前に進むことができます。いまのライフスタイルを変えるとは、そういうことです。応募しないままでは、どこにも進めません。

青年:夢は砕け散るかもしれませんがね!

哲人:でも、どうでしょう。シンプルな課題━━やるべきこと━━を前にしながら「やれない理由」をあれこれひねり出し続けるのは、苦しい生き方だと思いませんか? 小説家を夢見る彼の場合、まさしく「わたし」が人生を複雑にし、幸福に生きることを困難にしているわけです。

青年:…厳しい。先生の哲学は、あまりにも厳しい!

哲人:たしかに、劇薬かもしれません。

青年:劇薬ですとも!

哲人:ですが、世界や自分への意味づけ(ライフスタイル)を変えれば、世界とのかかわり方、そして行動までもが変わらざるをえなくなります。この「変わらざるをえない」というところを忘れないでください。あなたは「あなた」のまま、ただライフスタイルを選びなおせばいい。厳しい話しかもしれませんが、シンプルです。

青年:そうじゃない、わたしのいっている厳しさは違います! 先生のお話を聞いていると、「トラウマなど存在しないし、環境も関係ない。なにもかもが身から出た錆なのであって、お前の不幸はすべてお前のせいだ」と、これまでの自分を断罪されている気分になってくるんですよ!

哲人:いえ、断罪しているのではありません。むしろ、アドラーの目的論は「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない」といっているのです。自分の人生を決めるのは、「いま、ここ」に生きるあなたなのだ、と。

青年:わたしの人生は、いま、ここで決まると?

哲人:ええ、過去など存在しないのですから。

青年:…いいでしょう。先生、わたしはあなたのご持論に100パーセント同意しているわけではありません。納得できないところ、反論したいところはたくさんあります。しかし同時に、一考に値するお話ではありますし、もっとアドラー心理学を学びたくなってきたのも事実です。今晩はこのあたりで退散しますが、来週にでもまたおじゃまさせてください。そうでもしないと、もう頭がパンクしそうです。

哲人:けっこうです。ひとりで考える時間も必要でしょう。わたしはいつでもこの部屋におりますので、あなたの好きなときに訪ねてくださればいい。楽しい時間をありがとう。また語り合いましょう。

青年:最後にもうひとつ。本日はあまりに刺激的な議論が続いたため、幾分失礼な言葉を口にしてしまったように思います。申し訳ございませんでした。

哲人:気にすることはありません。プラトンの対話篇をお読みになるといいでしょう。ソクラテスの弟子たちは、驚くほどあけすけな言葉と態度でソクラテスと語り合っています。本来、それが対話のあるべき姿なのです。

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