幸せになる勇気 第一部

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幸せになる勇気

 

自己啓発の源流 「アドラー」の教えⅡ

それはもっと、明るく有効的な訪問になるはずだった。「次の機会があったときには、もはや論破などとは言わず、かけがえのない友人のひとりとして訪ねます。」たしかにあの日の別れ際、青年はそんな言葉を口走った。しかし、3年の歳月が流れたいま、彼はまったく違った目的を持って、この男の書斎を訪ねている。青年は、これから自分が打ち明けようとしていることの重大さに身を震わせ、どこから話すべきか、いまだ見当がつかなかった。

哲人:さあ、話していただけませんか?

青年:わかりました。どうしてわたしが再びこの書斎をお訪ねしたのか、ですね。残念ながら、先生とのんびり旧交をあたためようってわけじゃありません。先生もお忙しいでしょうし、わたしだって暇をもてあますような身分ではない。当然、火急の要件があっての再訪です。

哲人:もちろんそうでしょう。

青年:わたしも考えました。十分すぎるほど悩み、苦しみ、考え抜きました。その上で、重大な決意を固め、それをお伝えしにきたわけです。お忙しいとは思いますが、今宵だけはわたしのために時間をください。おそらく、これが最後の訪問になるのですから。

哲人:なにがあったのでしょう?

青年:…おわかりになりませんか? わたしが苦しみ抜いてきた課題。それは「アドラーを捨てるか否か」ですよ。

哲人:ほう。

青年:結論から申し上げると、アドラーの思想はペテンです。とんだペテンです。いやそれどころか、害悪をもたらす危険思想と言わざるをえません。先生が勝手に信奉する分には自由ですが、できれば金輪際、口をつぐんでいただきたい。その思いを胸に、そしてあくまでもあなたの目の前でアドラーを打ち捨てるべく、今宵最後の訪問を決意したのです。

哲人:なにか契機となる出来事があったのですね?

青年:冷静に、順を追ってお話しします。まずは3年前、あの、わたしが先生と別れた最後の日のことは覚えていますか?

哲人:もちろんです。白銀の雪が降りしきる、冬の日でした。

青年:そう。満月の美しい、青い夜でしたよ。アドラーの思想に感化されたわたしは、あの日を境に大きな一歩を踏み出しました。つまり、それまで働いていた大学図書館を辞め、母校の中学校で教師の職を得たのです。アドラーの思想に基づく教育を実践し、ひとりでも多くの子どもたちに光を届けよう、と。

哲人:すばらしい決心ではありませんか。

青年:ええ。当時のわたしは理想に燃えていました。こんなにすばらしい、世界を一変しうる思想を自分ひとりの胸に秘めていてはいけない。もっと多くの人に伝えなければならない。じゃあ、誰に伝えるのか? …結論はひとつです。アドラーを知るべき人間は、薄汚れてしまった大人たちではない。次代をつくる子どもたちの届けてこそ、その思想は前に進むのだ。それがわたしに課せられた使命なのだ。 …そんなふうに、火傷しそうなほど燃えさかっていました。

哲人:なるほど。あくまでも、過去形で語られるのですね?

青年:そのとおり、もはや完全に過去の話です。いや、誤解しないでください。生徒たちに失望したのではありません。ましてや教育そのものに失望し、あきらめたわけでもない。わたしはただ、アドラーに失望し、つまりはあなたに失望したのです。

哲人:なぜでしょう?

青年:はっ、そんなものご自分の胸に手をあてて聞いてみることですね! アドラーの思想は、現実社会ではなんの役にも立たない。机上の空論でしかないのですよ! 特に、そこに掲げられた「ほめてはいけない、叱ってもいけない」という教育方針。断っておきますがね、わたしは律義に守りましたよ。ほめることもしなかったし、叱ることもしなかった。試験で満点をとってもほめず、きれいに掃除をしてもほめない。宿題を忘れても叱らないし、授業中に騒いでも叱らない。その結果、なにが起こったと思いますか?

哲人:…教室が荒れてしまったわけですね?

青年:まさに。まあ、いまになって考えれば当然のことです。安っぽいペテンに引っかかった、わたしが悪かったのです。

哲人:それであなたは、どうされたのですか?

青年:言うまでもありません。悪さをする生徒に対し、強くしかる道を選びました。もりろん先生は、それを安直にして愚かな解決策だと断ずるでしょう。しかしですね、わたしは哲学にかまけて空想にふける人間ではない。現実を生き、現場を預かり、生徒たちの命と人生を預かる、教育者なのです。しかも、目の前にある「現実」は、一瞬たりとも待ってくれず、刻々と動いている! 手をこまねいているわけにはいかないのです!

哲人:効果のほどはいかがです?

青年:無論、いまさら叱ったところで、どうにもなりません。もう、わたしのことを「気の弱いやつだ」と見くびっていますからね。正直なところを申し上げれば、体罰が許された時代の教師たちを羨ましく思うことさえありますよ。

哲人:おだやかではありませんね。

青年:誤解のないように申し添えておくと、わたしは激情に駆られて「怒って」いるのではありません。理性に基づき、教育の最終手段として、「叱って」いるだけです。いわば、叱責という名の抗生物質を処方しているのです。

哲人:それで、アドラーを捨てたくなった、と?

青年:まあ、これはわかりやすい一例に過ぎませんがね。たしかにアドラーの思想はすばらしい。価値観を揺さぶられ、曇っていた空が開け、人生が変わったような気にさせられる。非の打ち所がない、世界の真理にさえ思える。 …しかしですね、それが通じるのも「この書斎」のなかだけなのですよ! この扉を開け放ち、現実の世界に飛び出していったとき、アドラーの思想はあまりにもナイーブすぎる。とても実用に耐えうる議論ではなく、空虚な理想論でしかない。あなたはこの書斎で、自分に都合のいい世界をこしらえ、空想にふけっているだけだ。ほんとうの世界を、有象無象が生きる世界を、なにもご存じない!

哲人:なるほど。 …それで?

青年:ほめることもせず、叱ることもしない教育。自主性の名の下に、生徒たちを野放しにする教育。そんなものは教育者としての職務を放棄しているにすぎない! わたしは今後、アドラーとは違ったやり方で子どもたちと向かい合います。それが「正しい」のかどうかは、どうでもいい。でも、そうせざるをえないのです。ほめることもするし、叱ることもする。当然、厳しい罰を与えることもしなくてはならない。

哲人:確認ですが、教育者であることは辞めないのですね?

青年:もちろんです。わたしが教育者の道を捨てることは、ぜったいにありえません。これは自分で選んだ道であり、職業ではなく「生き方」なのですから。

哲人:それを聞いて安心しました。

青年:他人事のつもりですか!? もしも教育者であり続けるのだとすれば、わたしはここでアドラーを捨てなきゃならんのです! さもなくば、教育者の責任を放棄して生徒たちを見捨てることになる。 …さあ、これはあなたの喉元に突きつけられた刃だ。どうお答えになります?

 

人々はアドラーの思想を誤解している

哲人:まず、訂正させてください。先ほどあなたは「真理」という言葉を使いました。しかしわたしは、絶対不変の真理として、アドラーを語っているわけではありません。いわば、眼鏡のレンズを処方しているようなものです。このレンズによって、視界が開ける方は多くいるでしょう。一方、余計に目が曇るという方だっているでしょう。そういう人にまで、わたしはアドラーのレンズを強要しようとは思いません。

青年:おっと、逃げるのですね?

哲人:違います。こうお答えしましょう。アドラー心理学ほど、誤解が容易で、理解がむずかしい思想はない。「自分はアドラーを知っている」と語る人の大半は、その教えを誤解しています。真の理解に近づく勇気を持ち合わせておらず、思想の向こうに広がる景色を直視しようとしないのです。

青年:人々はアドラーを誤解している?

哲人:ええ。もしもアドラーの思想に触れ、即座に感激し、「生きることが楽になった」と言っている人がいれば、その人はアドラーを大きく誤解しています。アドラーがわれわれに要求することの内実を理解すれば、その厳しさに身を震わせることになるはずですから。

青年:つまり、わたしもアドラーを誤解しているとおっしゃるわけですね?

哲人:ここまでの話を聞く限り、そうです。とはいえこれは、あなただけの話ではありません。多くのアドレナリン(アドラー心理学の実践者)は、誤解を入口にして、理解の階段を登ります。きっとまだ、あなたは登るべき階段を見つけきれていないのでしょう。若き日のわたしにしても、すぐに見つけきれたわけではありませんでした。

青年:ほう、先生も迷った時期があったと?

哲人:ええ、ありました。

青年:では、教えていただきましょう。その理解に至る段階とやらは、どこにあるのです? そもそも階段とは、いったいなんなのです? 先生はどこで見つけたのです?

哲人:わたしは幸運でした。アドラーを知ったとき、ちょうど主夫として幼い子どもを育てていましたから。

青年:どういうことです?

哲人:子どもを通じてアドラーを学び、子どもとともにアドラーを実践し、理解を深め、確証を得ていったのです。

青年:だから、なにを学び、どんな確証を得たのかを聞いているのですよ!

哲人:ひと言でいうなら、「愛」です。

青年:なんですって?

哲人:…もう一度言う必要はありませんよね?

青年:はっはっはっ、これはお笑いだ! 言うに事欠いて、愛ですって? ほんとうのアドラーを知りたければ、愛を知れと?

哲人:この言葉を笑えるあなたは、まだ愛を理解されていない。アドラーの語る愛ほど厳しく、勇気を試される課題はありません。

青年:ペッ!! どうせ説教じみた隣人愛を語るのでしょう。聞きたくもありませんね!

哲人:あなたはいま、教育に行き詰って、アドラーへの不信感を表明されている。のみならず、アドラーを破棄する、お前も二度と語るな、とまで意気込んでいる。なぜそこまで憤っているのか? きっとあなたは、アドラーの思想を魔法のようなものだと感じていたのでしょう。その杖を振れば、たちまちすべての願いがかなうような。

だとすれば、あなたはアドラーを捨てるべきです。あなたが抱いてきた、誤ったアドラーを捨て、ほんとうのアドラーを知るべきです

青年:違う! 第一に、そもそもわたしはアドラーに魔法など期待していない。そして第二に、あなたは以前こうおっしゃったはずだ。「人は誰でも、いまこの瞬間から幸せになれる」と。

哲人:ええ、たしかに言いました。

青年:あの言葉など、まさに魔法そのものじゃありませんか! あなたは「鴈金にだまされるな」と忠告しながら、別の鴈金を握らせようとしている。典型的な詐欺の手口です!

哲人:人は誰でも、いまこの瞬間から幸せになることができる。これは魔法でもなんでもない、厳然たる事実です。あなたも、他のどんな人も、幸福へと踏み出すことができます。ただし幸福とは、その場に留まっていて享受できるものではありません。踏み出した道を歩み続けなければならない。ここは指摘しておく必要があるでしょう。

あなたは最初の一歩を踏み出しました。大きな一歩を踏み出しました。しかし、勇気をくじかれ、歩みを止めたばかりか、いま引き返そうとされている。なぜだかおわかりですか?

青年:わたしに忍耐力がないとおっしゃるのですね。

哲人:いいえ。あなたはまだ、「人生における最大の選択」をしていない。それだけです。

青年:人生における、最大の選択!? なにを選べと?

哲人:先ほども申し上げました。「愛」です。

青年:ええい、そんな言葉でわかるか! 抽象に逃げないでください!!

哲人:わたしは真剣です。あなたがいま抱えられている問題は、すべて愛のひと言に集約されていくでしょう。教育の問題も、そしてあなた自身が進むべき人生の問題も。

青年:…いいでしょう。これは論駁しがいがありそうだ。では、本格的な議論に入る前に、ひと言だけ申し上げておきます。先生、わたしはあなたのことを、まごうことなき「現代のソクラテス」だと思っているのですよ。ただし、その思想においてではなく、その「罪」において。

哲人:罪?

青年:なんでもソクラテスは、古代ギリシアの都市国家・アテナイの若者たちをそそのかし、堕落させた嫌疑によって、死罪を言い渡されたそうですね? そして脱獄を持ちかける弟子たちを制し、自ら毒杯をあおってこの世を去った。…おもしろいじゃありませんか。わたしに言わせれば、この古都でアドラーの思想を説くあなたも、まったく同じ罪を抱えておられる。つまり、世間知らずの若者を言葉巧みにそそのかし、堕落させている!

哲人:あなたはアドラーにかぶれ、堕落してしまったと?

青年:だからこそ、こうして決別の再訪を決意したのです。わたしはこれ以上、被害者を増やしたくない。思想的に、あなたの息の根を止めておかねばならない。

哲人:…長い夜になります。

青年:しかし、今晩中、夜明けまでには決着をつけましょう。もう、何度も訪ねるまでもありません。わたしが理解の階段を登るのか。あるいは、あなたの大事な階段ごと打ち壊してアドラーを捨て去るのか。ふたつにひとつ、真ん中はありません。

哲人:わかりました。これが最後の対話になるでしょう。いや…どうやら、最後にしなければならないようです。

 

本書は、時代を100年先駆けたアルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を、「青年と哲人の対話篇」という物語形式を用いてまとめた「勇気の二部作」完結編です。

前作『嫌われる勇気』で示された幸福への道を、わたしたちは具体的にどのように歩んでいけばいいのか? 日々、アドラー心理学をどう実践していけばいいのか? そして、アドラーがたどりついた結論━━幸せに生きるために誰もが為さなければならない「人生最大の選択」━━とは、いったい何のか?

ふたたび幕を開ける、劇薬の哲学問答。青年と共に理解の階段を登る"勇気"を、あなたは持っていますか。

 

第一部 悪いあの人、かわいそうなわたし

3年ぶりに訪れた哲人の書斎は、あのころとほとんど変わらなかった。使い込まれた机の上には書きかけの原稿が束になって置かれている。風に飛ばされないためだろうか、その上には金の細工が施された古めかしい万年筆が載せられていた。青年にはすべて懐かしく、まるで自分の部屋のようにさえ感じられる空間だ。あの本も持っているし、あの本も先週読んだばかりだ。壁一面の本棚に目を細める青年は、大きく息をついた。ここに安住してはいけない。わたしは、踏み出さなければならないのだ。

 

アドラー心理学は宗教なのか

青年:わたしは本日の再訪を決意するまで、つまりアドラーを打ち捨てる決心を固めるまで、かなり真剣に悩みました。あなたが想像する以上に、悩み苦しみました。アドラーの思想は、それだけ魅力的でしたから。しかし同時に、わたしがあのころから疑念を抱いていたことも事実です。その疑念とはずばり、「アドラー心理学」という名称そのものに関わっています。

哲人:ほう、どういうことでしょう?

青年:アドラー心理学の名のとおり、アドラーの思想は心理学だとされている。そしてわたしの知る限り、心理学とは科学であるはずです。ところが、アドラーの唱える言葉は、とても科学的とは思えないところがある。もちろん「心」を扱う学問ですから、すべてが数式で表されるようなものではないでしょう。そこはよくわかっています。

しかしですね、困ったことにアドラーは、「理想」にまで踏み込んで人間を語るわけですよ。まるでキリスト教が説く、隣人愛のような甘ったるいお説教を。さあ、そこで最初の質問です。先生はアドラー心理学を「科学」だと思われますか?

哲人:厳密な意味での科学、つまり反証可能性を持つような科学なのかと言えば、それは違うでしょう。アドラーは自らの心理学を「科学」だと明言していますが、彼が「共同体感覚」の概念を語りはじめたとき、多くの仲間が彼のもとを去っていきました。あなたと同様、「こんなものは科学ではない」と断じて。

青年:ええ、科学としての心理学をめざす者にとっては当然の反応でしょう。

哲人:このあたりはいまだ論議の続くところではありますが、フロイトの精神分析学、ユングの分析心理学、そしてアドラーの個人心理学は、反証可能性を持たないという意味において、いずれも科学の定義とは相いれないところがある。それは事実です。

青年:なるほど。今日は帳面を持ってきていますからね。しっかり書き留めておきましょう。厳密な、意味での、科学とは、呼べない…と! それで先生、あなたは3年前、アドラーの思想について「もうひとつの科学」という言葉を使われましたね?

哲人:ええ。わたしはアドラー心理学のことを、ギリシア哲学と同一線上にある思想であり、哲学であると考えています。それはアドラー自身についても同じです。彼は心理学者という以前に、ひとりの哲学者であり、その知見を臨床の現場に応用した哲学者である。これがわたしの認識です。

青年:わかりました。では、ここからが本題です。わたしはアドラーの思想について、よく考え、よく実践しました。疑ってかかっていたわけではありません。むしろ熱に浮かされたように、心底信じきっていました。ところが、特に教育の現場でアドラーの思想を実践しようとすると、驚くほどの反発が返ってくる。生徒たちだけでなく、周りの教員たちからも反発されてしまう。考えてみれば当然のことです。彼らとはまったく違った価値観に基づく教育を持ち込み、はじめてそれを実践しようとしているのですから。そしてふと、わたしはある人々の姿を思い出し、自らの境遇と重ねました。…誰だかわかりますか?

哲人:さあ、誰でしょう?

青年:大航海時代、異教徒の国に乗り込んでいったカトリックの宣教師たちですよ!

哲人:ほう。

青年:アフリカ、アジア、そしてアメリカ大陸。カトリックの宣教師たちは、言葉も文化も、神さえも違う異国の地に乗り込み、自ら信じる教えを説いていきました。まさにアドラーの思想を説かんと赴任した、わたしと同じように。彼ら宣教師だって、布教に成功することもあれば、弾圧され、残忍な方法で処刑されることもありました。いや、常識的に考えたら拒絶されるのが普通でしょう。

だとすれば、いったいどうやって彼ら宣教師たちは、現地の民に土着の信仰を捨てさせ、あらたな「神」を説いていったのか。これは相当に困難な道ですからね。ぜひとも知りたいと思ったわたしは、図書館に走りました。

哲人:それは…。

青年:おっと、まだ話は終わりませんよ? そうやって大航海時代の宣教師たちに関する書物を読みあさっていたとき、もうひとつおもしろいことに気づくわけです。「アドラーの哲学は、結局のところ宗教ではないのか?」と。

哲人:…なるほど。

青年:だってそうでしょう、アドラーの語る理想は、科学ではない。科学でない限り、最終的には「信じるか、信じないか」という信仰レベルの話に行きつく。そしてまた、こんなふうにも思うわけです。たしかにわれわれの目から見れば、アドラーを知らない人々は、偽りの神を信じる野蛮な未開人に映る。一刻も早く、ほんとうの「真理」を教え、救済しなければ、と感じる。でも、向こうからすると、われわれのほうこそ、邪神を信奉する未開の民なのかもしれない。われわれこそが、救済されるべき存在なのかもしれない。違いますか?

哲人:無論、そのとおりでしょう。

青年:では、お聞かせください。いったいアドラーの哲学は、宗教となにが違うのです?

哲人:宗教と哲学の違い。大切なテーマです。ここは思いきって、「神」の存在を除外して考えると議論がわかりやすくなります。

青年:ほう。…どういうことです?

哲人:宗教も哲学も、そして科学も、出発点は同じです。わたしたちはどこからきたのか。わたしたちはどこにいるのか。そしてわたしたちはどう生きればいいのか。これらの問いから出発したものが、宗教であり、哲学であり、科学です。古代ギリシアにおいては哲学と科学の区分はなく、科学(science)の語源であるラテン語の「scientia」は、単に「知識」という意味でしかありません。

青年:まあ、当時の科学なんてそんなものでしょう。でも問題は、哲学と宗教です。いったい、哲学と宗教はなにが違うのです?

哲人:その前に、両者の共通点を明らかにしておいたほうがいいでしょう。客観的な事実認定にとどまる科学と違って、哲学や宗教では、人間にとっての「真」「善」「美」まで取り扱う。ここは非常に大きなポイントです。

青年:わかります。人間の「心」にまで踏み込んでいくのが哲学であり、宗教である、と。それで両者の相違点、境界線はどこにあるのです?やはり「神がいるのか、いないのか」という、その一点ですか?

哲人:いえ。最大の相違点は「物語」の有無でしょう。宗教は物語によって世界を説明する。言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。それに対して哲学は、物語を退ける。主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする。

青年:…哲学は物語を退ける?

哲人:あるいは、こんなふうに考えてください。真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿の上を歩いている。常識を疑い、自問と自答をくり返し、どこまで続くかわからない竿の上を、ひたすらに歩いている。するとときおり、暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。

青年:ほう。

哲人:そしてある人は、内なる声に従って歩むことをやめてしまう。竿から飛び降りてしまう。そこに真理があるのか? わたしにはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。

青年:では、永遠に歩き続ける哲学に、答えはないのですか?

哲人:哲学(philosophy)の語源であるギリシア語の「philosophia」は、「知を愛する」という意味を持ちます。つまり哲学とは「愛知学」であり、哲学者とは「愛知者」なのです。逆に言うと、すべての知を知り尽くし、完全なる「知者」になってしまったら、その人はもはや愛知者(哲学者)ではありません。近代哲学の巨人カントは、「われわれは哲学を学ぶことはできない。哲学することを学べるだけである」と語っています。

青年:哲学すること?

哲人:ええ。哲学は学問というより、生きる「態度」なのです。おそらく宗教は、神の名の下に「すべて」を語るでしょう。全知全能の神と、その神から託された教えを語るでしょう。これは哲学と、本質的に相容れない考え方です。

そして、もしも「自分はすべてを知っている」と称する者、知ることや考えることの歩みを止めてしまった者がいるとしたら、その人は神の実在や不在、また信仰の有無にかかわらず、「宗教」に足を踏み入れている。わたしはそう考えます。

青年:つまり、先生はまだ答えを「知らない」のですね?

哲人:知りません。われわれは、その対象について「知っている」と思った瞬間、それ以上を求めようとしなくなります。わたしはいつまでも自分を考え、他者を考え、世界を考え続けます。ゆえにわたしは永遠に「知らない」のです。

青年:へっへっへ。その答えもまた哲学的ですね。

哲人:ソクラテスは、知者を名乗る人々(ソフィスト)との対話を通じて、ひとつの結論に達しました。わたし(ソクラテス)は「自分の知識が完全でないこと」を知っている。自分が無知であることを知っている。しかし、彼らソフィスト、つまり知者を自称する者たちは「すべて」をわかったつもりになっており、自らの無知についてなにも知らない。この一点、すなわち「自らの無知」を知っている、という一点において、わたしは彼らよりも知者である。…有名な、「無知の知」という言葉です。

青年:じゃあ、答えを知りもしない、無知なるあなたが、いったいわたしになにを授けるというのです!?

哲人:授けることはしません。共に考え、共に歩きましょう。

青年:ほう、竿の先まで? 飛び降りることをせずに?

哲人:ええ。どこまでも問い続け、歩き続けるのです。

青年:大した自信ですね、もう詭弁は通用しないというのに。いいでしょう。その竿から、揺さぶり落としてさしあげますよ!

 

教育の目標は「自立」である

哲人:さあ、どこからいきますか?

青年:いま、わたしが抱える喫緊の課題は、やはり教育です。教育を軸に、アドラーの矛盾を暴いていきましょう。アドラーの思想はその根本においてあらゆる「教育」と相容れないところがあるのですから。

哲人:なるほど、おもしろそうです。

青年:アドラー心理学には「課題の分離」という考え方がありますよね? 人生のあらゆる物事について「これは誰の課題なのか?」という観点から、「自分の課題」と「他者の課題」を切り分けて考える。たとえばわたしが、上司に嫌われているとする。当然、気持ち良くはありません。なんとか好かれよう、認めてもらおうと、努力するのが普通です。

しかしアドラーは、それは間違っていると断ずる。わたしの言動、またわたしという人間について、他者(上司)がどのような評価を下すのか。これはその上司の課題(他者の課題)であって、わたしにコントロールできるものではない。わたしがどれだけ好かれる努力をしても、上司はわたしを嫌ったままかもしれない。

そこでアドラーは言うわけです。「あなたは他者の期待を満たすために生きているのではない」。そして「他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない」と。他者の視線に怯えず、他者からの評価を気にせず、他者からの承認も求めない。ただ自らの信じる最良の道を選ぶ。さらには他者の課題に介入してはいけないし、自分の課題に他者を介入させてもいけないと。はじめてアドラー心理学に触れる者にとって、大きな衝撃をもたらす概念です。

哲人:ええ。「課題の分離」ができれば、対人関係の悩みはかなり軽減されます。

青年:さらに先生は、こうおっしゃいました。それが誰の課題であるのか、見分ける方法は簡単である。「その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか?」。これを考えればいいのだと。間違っていませんね?

哲人:間違っていません。

青年:あのとき先生が挙げた事例は、子どもたちにとっての勉強でした。子どもが勉強をしない。将来を案ずる親は、勉強しなさいと叱りつける。しかし、ここで「勉強をしないこと」がもたらす結末――要するに希望の学校に進めないとか、就職が難しくなるとか――を最終的に引き受けるのは誰か? とりもなおさず、それは子ども自身であって、間違っても親ではない。すなわち勉強は「子どもの課題」であり、親が介入すべき問題ではない。これも大丈夫ですね?

哲人:ええ。

青年:さて、ここに大きな疑問が浮かんでくるわけです。勉強は子どもの課題である。子どもの課題に介入してはならない。仮にそうだとした場合、「教育」とはなんなのです? われわれ教育者とは、どういう職業なのです? だってそうでしょう。先生の理屈に従えば、勉強を押しつけるわれわれ教育者は、子どもの課題に土足で踏み込む、不法侵入者の集まりですよ! ははっ、どうです、答えられますか?

哲人:なるほど。教育者たちとアドラーについて語り合うとき、ときおり出てくる質問です。たしかに勉強は子どもの課題である。そこに介入することは、親といえども許されない。アドラーの語る「課題の分離」を一面的にとらえると、あらゆる教育は他者の課題への介入になり、否定されるべき行為になってしまいます。しかしアドラーの時代、彼ほど教育に力を入れた心理学者はいませんでした。アドラーにとっての教育は、中心課題のひとつであるばかりか、最大の希望だったのです。

青年:ほう、具体的には?

哲人:たとえばアドラー心理学では、カウンセリングのことを「治療」とは考えず、「再教育」の場だと考えます。

青年:再教育?

哲人:ええ。カウンセリングも子どもの教育も、本質的に同じです。カウンセラーとは教育者であり、教育者とはカウンセラーである。そう考えてもらってもかまいません。

青年:ははっ、それは知りませんでした。まさかわたしがカウンセラーだったなんてね! いったい、どういう意味です?

哲人:大切なところです。整理しながらお話ししましょう。まず、家庭や学校での教育は、なにを目標になされるものなのか。あなたのご意見はいかがですか?

青年:…ひと言では語れませんよ。学問を通じて知識を修めること、社会性を身につけること、正義に重んじ、心身ともに健康な人間として成長していくこと…。

哲人:ええ。いずれも大切なことではありますが、もっと大きなところで考えましょう。教育をほどこすことによって、子供たちにどうなってほしいのでしょうか?

青年:…一人前の大人になってほしい、ですか?

哲人:そう。教育が目標とするところ、ひと言でいうとそれは「自立」です。

青年:自立…まあ、そうとも言えるでしょう。

哲人:アドラー心理学では、人はみな、無力な状態から脱し、より向上していきたいという欲求、つまり「優越性の追求」を抱えて生きる存在だと考えます。よちよち歩きの赤ちゃんが、二歩足で立つようになり、言葉を覚え、周囲の人々と意志の疎通を図れるようになっていく。つまり、人はみな「自由」を求め、無力で不自由な状態からの「自立」を求めている。これは根源的な欲求です。

青年:その自立を促すのが、教育だと?

哲人:はい。そして身体的な成長のみならず、子供たちが社会的に「自立」するにあたっては、さまざまなことを知っていかねばなりません。あなたの言う、社会性や正義、それから知識などもそうでしょう。無論、知らないことについては、それを知る他者が教えなければならない。周囲にいる人間が援助していかなければならない。教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」なのです。

青年:はっ、なんだか苦し紛れの言い換えに聞こえますがね!

哲人:たとえば、交通ルールを知らないまま、赤信号と青信号の意味を知らないまま、社会に放り出されたらどうなるか。あるいは自動車の運転技術を知らないまま、運転席に座らせることができるか。当然、そこには覚えるべきルールがあり、身につけるべき技術があるでしょう。これは命に係わる問題であり、しかも他者の命をも危険にさらすかもしれない問題です。逆に言うと、もしも地球上にひとりも他者がおらず、自分ひとりで生きているのだとすれば、知るべきものはなく、教育も必要ありません。そこに「知」はいらないのです。

青年:他者がいて、社会があるから、学ぶべき「知」があると?

哲人:そのとおりです。ここでの「知」とは、学問だけでなく、人間が人間として幸福に生きるための「知」も含みます。すなわち、共同体のなかでどのように生きるべきなのか。他者とどのように関わればいいのか。どうすればその共同体に自分の居場所を見出すことができるのか。「わたし」を知り、「あなた」を知ること。人間の本性を知り、人間としての在り方を理解すること。アドラーはこうした知のことを「人間知」と呼びました。

青年:人間知? はじめて聞く言葉ですね。

哲人:そうだったかもしれません。この人間知は、書物によって得られる知識ではなく、他者と交わる対人関係の実践から学んでいくしかないものです。その意味において大勢の他者に囲まれる学校は、家庭以上に大きな意味を持つ教育の場だといえます。

青年:教育の鍵は、その「人間知」とやらにかかっている、と?

哲人:ええ。カウンセリングも同じです。カウンセラーは、相談者の「自立」に向けて援助する。そして自立のために必要な「人間知」を、共に考えるのです。…そうですね、あなたは前回お話しした、アドラー心理学の掲げる目標を覚えていますか? 行動面の目標と、心理面の目標は。

青年:ええ、覚えていますとも。行動面の目標は次のふたつ。

 

①自立すること

②社会と調和して暮らせること

 

そしてこの行動を支える心理的目標が、次のふたつでした。

 

①わたしには能力がある、という意識

②人々はわたしの仲間である、という意識

 

要するに、カウンセリングだけでなく、教育現場においても、この4つが大切になるとおっしゃるのですね?

哲人:さらには、漠然とした生きづらさを感じる、われわれ大人にとっても。これらの目標に到達できず、社会生活に苦しんでいる大人は大勢いますからね。

もしも「自立」という目標を置き去りにしてしまったら、教育やカウンセリング、あるいは仕事の指導も、すぐさま強要へと変貌します。

われわれは自らの役割に自覚的であらねばなりません。教育が強制的な「介入」に転落するのか、自立を促す「援助」に踏みとどまるのか。それは教育する側、カウンセリングする側、指導する側の姿勢にかかっているのです。

青年:たしかにそうでしょう。わかります、同意しますよ、その高邁な理想には。しかしながら先生、もう同じ手は通用しないのです! 先生と話していると、最後はいつも抽象的な理想論になっていく。気持ちのよい、大きな言葉を聞かされ、「わかったつもり」になっていく。

しかし、問題は抽象でなく、具体です。空論ではなく、地に足のついた実論をお聞かせいただきましょう。具体的に、教育者はどのような一歩を踏み出せばいいのですか? あなたはずっとそこをごまかしたままじゃありませんか、いちばん大事な具体の一歩を。遠いのですよ、先生の話は。いつも遠くの風景ばかりを語って、足元のぬかるみを見ようとしていない!

 

3年前の青年は、哲人の口から語られるアドラーの思想に驚き、疑い、感情的に反発するのが精一杯だった。しかし今回は違う。もはやアドラー心理学の骨格は十分に理解し、現実社会での経験も積んでいる。この、実地での経験という意味においては、むしろ自分のほうがより多くのことを学んできたとさえ言える。今回、青年のプランは明確だった。抽象ではなく、具体の話を。理論ではなく、実践の話を。そして理想ではなく、現実の話を。わたしが知りたいのはそれであり、アドラーの弱点もそこにあるのだ。

 

尊敬とは「ありのままにその人を見る」こと

哲人:具体的にどこからはじめればいいのか。教育、指導、援助が「自立」という目標を掲げるとき、その入口はどこにあるのか。たしかに悩むところでしょう。しかし、ここには明確な指針があります。

青年:聞きましょう。

哲人:答えはひとつ、「尊敬」です。

青年:尊敬?

哲人:ええ。教育の入口は、それ以外にありえません。

青年:それはまた、意外な答えですね! つまりあれですか、親を尊敬しろ、教師を尊敬しろ、上司を尊敬しろ、というわけですか?

哲人:違います。たとえば学級の場合、まずは「あなた」が子どもたちに対して尊敬の念を持つ。すべてはそこからはじまります。

青年:わたしが? 5分と黙って人の話を聞くことのできないあの子たちを?

哲人:ええ。これは親子であれ、あるいは会社組織のなかであれ、どのような対人関係でも同じです。まずは親が子どもを尊敬し、上司が部下を尊敬する。役割として「教える側」に立っている人間が、「教えられる側」に立つ人間のことを敬う。尊敬なきところに良好な対人関係は生まれず、良好な関係なくして言葉を届けることはできません。

青年:どんな問題児でも尊敬しろと?

哲人:ええ。根源にあるのは「人間への尊敬」なのですから。特定の他者を尊敬するのではなく、家族や友人、通りすがりの見知らぬ人々、わらには生涯会うことのない異国の人々まで、ありとあらゆる他者を尊敬するのです。

青年:ああ、またしても道徳のお説教だ! そうじゃなければ宗教だ。いい機会です、言っておきましょう。たしかに学校教育のなかでも、道徳はカリキュラムに含まれ、それなりの地位を占めていますよ。その価値を信じる人間が多いことは認めましょう。

でも、考えてもごらんなさい。なぜ、わざわざ子どもたちが不道徳な存在であり、ひいては人間が不道徳だからなのです! ちぇっ、なにが「人間への尊敬」だ! いいですか、わたしも、そして先生も、魂の奥底に漂っているのはおぞましい不道徳の腐臭なのです!

不道徳なる人間に、道徳的であれと説く。わたしに道徳を求める。これはまさに介入であり、強要に他なりません。あなたのおっしゃることは矛盾だらけだ! くり返しますがね、先生の理想論じゃ現場はなにひとつ動かない。しかも、あの問題児たちをどうやって尊敬しろと!!

哲人:では、わたしもくり返しましょう。わたしは道徳を説いているのではありません。続いてもう一点、あなたのような方にこそ、尊敬を知り、実践していただかなければならない。

青年:まっぴら御免ですね! わたしは宗教じみた空論を聞きたいのではない。明日にでも実践可能な、具体の話を聞いているのです!

哲人:尊敬とはなにか? こんな言葉を紹介しましょう。「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである」。アドラーと同じ時代に、ナチスの迫害を逃れてドイツからアメリカに渡った社会心理学者、エーリッヒ・フロムの言葉です。

青年:「その人が唯一無二の存在であることを知る能力」?

哲人:ええ。この世界にたったひとりしかいない、かけがえのない「その人」を、ありのままに見るのです。さらにフロムは、こう付け加えます。「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」と。

青年:どういう意味です?

哲人:目の前の他者を、変えようとも操作しようともしない。なにかの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認める。これに勝る尊敬はありません。そしてもし、誰かから「ありのままの自分」を認められたなら、その人は大きな勇気を得るでしょう。尊敬とは、いわば「勇気づけ」の原点でもあるのです。

青年:違う! そんなもの、わたしの知っている尊敬ではない。尊敬ってのはね、自分もそうありたいと請い願うような、あこがれにも似た感情のことを指すのですよ!

哲人:いいえ。それは尊敬ではなく、恐怖であり、従属であり、信仰です。相手のことをなにも見ておらず、権力や権威に怯え、虚像を崇めているだけの姿です。

尊敬(respect)の語源となるラテン語の「respicio」には、「見る」という意味があります。まずは、ありのままのその人を見るのです。あなたはまだ、なにも見ていないし、見ようとしていない。自分の価値観を押しつけようとせず、その人が「その人であること」に価値を置く。さらには、その成長や発展を援助する。それこそが尊敬というものです。他者を操作しようとしる態度、矯正しようとする態度には、いっさいの尊敬がありません。

青年:…ありのままを認めれば、あの問題児たちが変わりますか?

哲人:それはあなたにコントロールできることではありません。変わるのかもしれないし、変わらないかもしれない。しかし、あなたの尊敬によって、生徒たち一人ひとりが「自分が自分であること」を受け入れ、自立に向けた勇気を取り戻すことになる。これは間違いないでしょう。取り戻した勇気を使うか使わないかは、生徒たち次第です。

青年:そこは「課題の分離」だと?

哲人:ええ。水辺まで連れていくことはできても、水を呑ませることはできません。あなたがどんなに優れた教育者であろうと、彼らが変化する保証はどこにもない。しかし、保証がないからこそ、無条件の尊敬なのです。まず「あなた」がはじめなければならない。いっさいの条件をつけることなく、どんな結果が待っていようとも、最初の一歩を踏み出すのは「あなた」です。

青年:しかし、それではなにも変わらない!

哲人:この世界には、いかなる権力者であろうと強要しえないものが、ふたつだけあります。

青年:なんです?

哲人:「尊敬」と「愛」です。たとえば、会社組織のトップに立つ人間が強権的な独裁者だったとしましょう。たしかに従業員たちは、なんでも命令に従います。従順な素振りを見せるでしょう。しかし、それは恐怖に基づく服従であり、そこに「尊敬」はひと欠片もありません。「俺を尊敬しろ」と叫んでも、誰も従いません。ますます心が離れていくだけです。

青年:まあ、それはそうでしょう。

哲人:しかも、互いのあいだには尊敬が存在しないのなら、そこには人間としての「関係」も存在しないでしょう。そのような組織は、たんなるネジやバネ、歯車のように「機能」としての人間が集まっているに過ぎない。機会のような「作業」はこなせても、人間としての「仕事」は、誰にもできないのです。

青年:ええい、回りくどい話は抜きだ! 要するに先生は、わたしが生徒たちから尊敬されていない、だから教室が荒れたのだとおっしゃるのですね!?

哲人:ひとときの恐怖はあっても、尊敬はないのでしょう。学級が荒れていくのも当然です。荒れる学級に手をこまねいていたあなたは、強権的な手段に出てしまう。力によって、恐怖によって、有無を言わさず従わせようとする。たしかに、一時的な効果は期待できるかもしれません。耳を傾けてくれるようになったと、安堵するかもしれません。しかし…。

青年:…こっちの話など、聞いちゃいない。

哲人:ええ。子どもたちは「あなた」ではなく、「権力」に服従しているだけです。「あなた」のことを理解しようとは、微塵も思っていません。耳を塞いで目をつぶり、怒りの嵐が過ぎ去るのを待っているだけです。

青年:ふっふっふ、おっしゃるとおりですよ。

哲人:この悪循環におちいるのも、まずは自分が生徒たちを尊敬する、無条件に尊敬する、という最初の一歩を踏み損ねたからなのです。

青年:踏み損ねたわたしは、なにをやっても通じるはずがなかった、ということですね?

哲人:ええ。誰もいない空間で大声を上げていたのです。聞こえるはずもありません。

青年:いいでしょう! まだまだ反論すべきことは山ほどありますがね、一応受け入れておきましょう。それで、仮に先生の話が正しかったとした場合、つまり、尊敬を糸口に関係を築いていくとして、いったいどうやって尊敬を示すのです? まさか、さわやかな笑顔で「きみのこと尊敬しているよ」と伝えろとでも?

哲人:尊敬とは、言葉になされるものではありません。しかも、そうやってすり寄ってくる大人に対して、子どもたちは敏感に「嘘」や「打算」を察知します。「この人は嘘をついている」と思った瞬間、そこに尊敬は生まれなくなります。

青年:ええ、ええ。それもおっしゃるとおりですよ。でも、どうしろというのです? そもそもね、先生はいま「尊敬」について、大きな矛盾をはらんだ話をしているのですよ。

哲人:ほう。どんな矛盾でしょう?

 

尊敬からはじめよ、と哲人は言う。教育だけではない、あらゆる対人関係の土台は尊敬によって築かれるのだと。たしかに人は、尊敬できない相手の言葉には耳を貸さない。哲人の主張にも理解できる部分はある。しかし、すべての他者に尊敬を寄せよ、学級の問題児にも、世間にはびこる悪党どもも、すべて尊敬の対象なのだ、という主張には断固反対だ。しかも、この男は自ら墓穴を掘った。看過できない矛盾を口にした。やはり、わたしがなすべき仕事はこれなのだ。この岩窟のソクラテスを、葬り去ることなのだ。青年はゆっくりと唇を舐めると、一気にまくし立てた。

 

「他者の関心事」に関心を寄せよ

青年:お気づきですか? 先ほど先生は、こう言いました。「尊敬はぜったいに強要づることができない」。なるほど、それはそうでしょう。わたしも大いに同意します。そころが、その舌の根も乾かぬうちに「生徒たちを尊敬しろ」とおっしゃる。ははっ、おかしいじゃありませんか! 強要できないはずのことを、ご自身がわたしに強要されている! これを矛盾と呼ばずして、なにを矛盾というのです!?

哲人:たしかに、その言葉だけを拾い上げると、矛盾して聞こえるでしょう。しかし、こう理解してください。尊敬のボールは、自らがそれを投げた人にだけ、返ってくるものだと。ちょうど、壁にボールを投げるようなものです。あなたが投げれば、返ってくることもある。しかし、壁に向かって「ボールをよこせ」と叫んでも、なにも起こらない。

青年:いいや、適当な比喩でごまかそうったって、そうはいきません。ちゃんと答えてください。ボールを投げる「わたし」の尊敬は、どこから生まれるのです? なにもないところからボールは生まれないのですよ!

哲人:わかりました。これはアドラー心理学を理解し、実践する際の重要なポイントです。あなたは「共同体感覚」という言葉を覚えていますか?

青年:もちろんです。まあ、まだ完全な理解に至っているわけではありませんがね。

哲人:ええ、なかなか理解のむずかしい概念です。また時間をかけながら考えていきましょう。さしあたって、ここで思い出していただきたいのは、アドラーがドイツ語の「共同体感覚」を英語に翻訳する際に「social interest」という語を採用したことです。これは「社会への関心」、もっと噛み砕いていえば、社会を形成する「他者」への関心、という意味になります。

青年:ドイツ語とは違うのですね?

哲人:はい。ドイツ語では共同体を意味する「Gemeinschaft」と、感覚を意味する「Gefühl」を組み合わせた「Gemeinschaftsgefühl」、まさしく「共同体感覚」という語を採用しています。もしもドイツ語に忠実な英訳をするなら、さしずめ「community feeling」や「community sense」といった語になっていたかもしれません。

青年:まあ、そういう学術的な話を聞きたいわけではないのですが、それがなにか?

哲人:考えてみてください。いったいなぜ、アドラーは「共同体感覚」を英語圏に紹介するとき、ドイツ語に忠実な「community feeling」ではなく、「social interest」の語を選んだのか? ここには大きな理由が隠されています。

ウィーン時代のアドラーが最初に「共同体感覚」の概念を唱えたとき、多くの仲間が彼のもとを去っていったという話はしましたね? そんなもの科学ではない、アドラーは科学であるはずの心理学に「価値」の問題を持ち込んだ、と反発され、仲間を失った話は。

青年:ええ、聞きました。

哲人:この経験を通じて、アドラーも「共同体感覚」を理解してもらうことのむずかしさは、十分理解していたはずです。そこで英語圏に紹介するにあたって、彼は「共同体感覚」という概念を、より実践に即した行動指針に置き換えた。抽象を具体に置き換えた。その具体的な行動指針こそが、「他者への関心」という言葉だったのです。

青年:行動指針?

哲人:ええ。自己への執着から逃れ、他者に関心を寄せること。その指針に従って進んでいけば、おのずと「共同体感覚」に到達すると。

青年:ああ、なにもわかっちゃいないな! その議論がすでに抽象的なのですよ! 他者に関心を寄せるという、行動指針そのものが。具体的に、なにをどうすればいいというのです!?

哲人:ではここで、もう一度フロムの言葉を思い出してください。「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」。…なにひとつ否定せず、なにひとつ強要せず、ありのままの「その人らしさ」を受け入れ、尊重する。つまり、相手の尊厳を守りつつ、関心を寄せていく。その具体的な第一歩がどこにあるか、おわかりになりますか?

青年:なんです?

哲人:これはきわめて論理的な帰結です。「他者の関心事」に関心を寄せるのです。

青年:他者の関心事!?

哲人:たとえば子どもたちが、あなたには到底理解しかねる遊びに興じている。いかにも子ども向けの、愚昧な玩具に夢中になっている。ときには公序良俗に反するような書物を読み、ゲームに耽溺している。…思い当たる事例はありますね?

青年:ええ。ほとんど毎日、そのような光景を目にします。

哲人:多くの親や教育者たちは、これに眉をひそめ、もっと「役に立つもの」や「価値のあるもの」を与えようとします。その行為を諫め、書物や玩具を没収し、自分たちがそこに価値を認めたものだけを与えるわけです。

無論、親たちは「子どものためを思って」そうしているのでしょう。しかしこれは、いっさいの「尊敬」を欠いた、子どもとの距離を遠ざけるだけの行為だと考えねばなりません。子どもたちの自然な関心を否定しているのですから。

青年:じゃあ、低俗な遊びを推奨しろと?

哲人:こちらからなにかを推奨するのではありません。ただ「子どもたちの関心事」に関心を寄せるのです。あなたの目から見て、どんなに低俗な遊びであろうと、まずはそれがどんなものなのか理解しようとする。自分もやってみて、場合によっては共に遊ぶ。「遊んであげる」のではなく、自分自身がそれを楽しむ。そのときはじめて、子どもたちは自分たちが認められていること、子ども扱いされていないこと、ひとりの人間として「尊敬」されていることを実感するでしょう。

青年:しかし、それは…。

哲人:子どもだけではありません。これはあらゆる対人関係で求められる、尊敬の具体的な第一歩です。会社での対人関係でも、恋人との関係でも、あるいは国際関係においても、われわれはもっと「他者の関心事」に関心を寄せる必要があります。

青年:ありえません! 先生はご存じないでしょうがね、あの子たちの関心事は、あまりにも下劣なものを含んでいる! 卑猥な、グロテスクな、醜悪なものを含んでいる! そこで正しい道を示してあげるのが、われわれ大人の役割ではありませんか!

哲人:違います。共同体感覚についてアドラーは、好んでこのような表現を使いました。われわれに必要なのは、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」だと。

青年:なんですって?

哲人:あなたはいま、自分の目を見て、自分の耳で聞き、自分の心で感じようとしている。だから子どもたちの関心事について「下劣」だの「醜悪」だのという言葉が出てくる。子どもたちは、それを下劣だとは思っていません。では、彼らはなにを見ているのか? まずはそこを理解することからはじめるのです。

青年:いいや、無理だ! できません、そんなことは!

哲人:なぜです?

 

もしも「同じ種類の心と人生」を持っていたら

青年:先生はもうお忘れになったかもしれませんが、わたしはよおく覚えていますよ。3年前、いちばんはじめにあなたは、こんなふうに断言された。われわれは誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけした主観的な世界に住んでいる。われわれが問題としなければならないのは、「世界がどうであるか」ではなく、「世界をどう見ているのか」なのだ。われわれは主観から逃れることはできないのだ、と。

哲人:ええ、そのとおりです。

青年:じゃあ聞きます。主観から逃れられないわれわれが、どうやって「他者の目」や「他者の耳」を持ち、ひいては「他者の心」まで持てるというのです!? 言葉遊びはいい加減にしていただきたい!

哲人:大切なところです。たしかに、わたしたちは主観から逃れることはできません。そして当然、他者になることもできない。でも、他者の目に映るものを想像し、耳に聞こえる音を想像することはできます。

アドラーは、こんなふうに提案しています。まずは、「もしもわたしがこの人と同じ種類の心と人生を持っていたら?」と考える。そうすれば、「きっと自分も、この人と同じような課題に直面するだろう」と理解できるはずだ。さらにそこから、「きっと自分も、この人と同じようなやり方で対応するだろう」と想像することができるはずだ、と。

青年:同じ種類の心と人生…?

哲人:たとえば、まったく勉強しようとしない生徒がいる。ここで「なぜ勉強しないんだ」と問いただすのは、いっさいの尊敬を欠いた態度です。そうではなく、まずは「もしも自分が彼と同じ心を持ち、同じ人生を持っていたら?」と考える。つまり、自分が彼と同じ年齢で、彼と同じ家庭に暮らし、彼と同じ仲間に囲まれ、彼と同じ興味や関心を持っていたらと考える。そうすれば「その自分」が、勉強という課題を前にどのような態度をとるか、なぜ勉強を拒絶するのか想像できるはずです。…このような態度を、なんと呼ぶかわかりますか?

青年:…想像力、ですか?

哲人:いいえ、これこそが「共感」なのです。

青年:共感!? …その、同じ種類の心、同じ種類の人生を持っていたらと考えることが?

哲人:はい。世間一般で考えられている共感、つまり相手の意見に「わたしも同じ気持ちだ」と同意することは、たんなる同調であって、共感ではありません。共感とは、他者に寄り添うときの技術であり、態度なのです。

青年:技術! 共感は、技術なのですか?

哲人:ええ。そして技術である限り、あなたにも身につけることができます

青年:ほほう、おもしろいじゃありませんか。じゃあ、技術として説明していただきましょう。いったいどうやって相手の「心と人生」とやらを知るのですか? ひとりずつカウンセリングしろとでも? はっ、そんなもの、わかるわけないでしょう!

哲人:だからこそ、「他者の関心事」に関心を寄せるのです。距離をおいて眺めているだけではいけない。自ら飛び込まなければならない。飛び込むことをしないあなたは、高いところに立って「それは無理だ」「これだけの壁がある」と批判しているだけです。そこに尊敬はなく、共感もありえません。

青年:違う! 全く違います!

哲人:なにが違うのです?

 

勇気は伝染し、尊敬も伝染する

青年:そりゃあね、生徒たちと一緒になってボールのひとつでも追いかけ回していれば、慕ってくれることもあるでしょう。好意を持たれ、身近な存在に感じてくれるかもしれません。でも、あの子たちの「友達」に成り下がれば、教育はより困難になる!

残念ながら、子どもたちは天使じゃありません。こちらが少しでも甘い顔を見せれば、ここぞとばかりに増長し、手がつけられなくなる小さな悪魔です。あなたは空想のなかの、この世に存在しない天使たちとたわむれているのです!

哲人:わたしも、ふたりの子どもを育てました。また、この書斎にはカウンセリングのため、学校教育に馴染めなかった若い方が、たくさん訪ねてこられます。おっしゃるように、子どもは天使ではありません。ひとりの人間です。

しかしひとりの人間であるからこそ、最大級の尊敬を払わなければならない。見下すのではなく、仰ぎ見るのでもなく、媚を売るのでもなく、対等な存在として接するのです。彼らの興味関心に共感を寄せながら。

青年:いいや、その尊敬を払う理由が気に食いませんよ。要は尊敬することで自尊心をくすぐってやれ、ということでしょう? それこそ子どもたちを馬鹿にした発想だ!

哲人:あなたはまだ、わたしの話を半分しか理解しておられないのでしょう。わたしはあなたに一方通行の「尊敬」を求めているのではありません。むしろ、生徒たちに「尊敬」を教えてほしいのです。

青年:尊敬を教える?

哲人:そう。あなたが身をもって実践することによって、尊敬するとはどういうことかを示す。尊敬という対人関係の土台を築く方法を示し、尊敬に基づく関係のあり方を知ってもらうのです。アドラーは言います。「臆病は伝染する。そして勇気も伝染する」と。当然「尊敬」もまた、伝染していくでしょう。

青年:伝染する!? 勇気も尊敬も?

哲人:ええ。はじめるのはあなたです。理解者がいなくとも、賛同者がいなくとも、まずはあなたが松明に火を灯し、勇気を、尊敬を、示さなければなりません。その松明で明るくなるのは、せいぜい半径数メートルでしょう。誰もいない、ひとりきりの夜道に思えるでしょう。しかし、あなたの掲げた火は、何百メートルも離れた誰かの目にも届きます。あそこに人がいる、あそこに明かりがある、あそこに行けば道がある、と。やがてあなたのまわりには、何十何百という明かりが集います。その明かりに照らされるのは、何十何百という仲間たちなのです。

青年:…ちぇっ、いったいなんの寓話だ! つまり、あれですか。われわれ教育者に課せられた役割は、子どもたちを尊敬し、尊敬とはなにかを示し、尊敬を学んでもらうことだとおっしゃるのですね?

哲人:はい、教育に限らず、あらゆる対人関係の第一歩はそこになります。

青年:いやいや、いったい何人のお子さんを育て、どれだけの人々にカウンセリングをしてきたのか知りませんがね、やはり先生は閉じられた書斎にこもる哲学者だ。現代の、そして現実の社会と学校をなにもご存じない!

いいですか、学校教育に求められているのは、そして資本主義社会で求められているのは、人格だの、茫漠とした「人間知」だのといった話ではないのです。保護者は、そして社会は、目に見える数字を求めている。教育現場でいうなら、学力の向上をね!

哲人:ええ、それはそうでしょう。

青年:どれだけ生徒から慕われようと、学力を伸ばせない教育者は、教員失格の烙印を押されます。そんなもの、お友達集団の赤字企業と一緒だ! そして、生徒たちの首根っこを押さえつけてでも学力向上に貢献した教育者は、拍手喝采を浴びるわけです。

しかも、問題はこの先にあります。徹底的に叱られ続けた生徒たちでさえ、のちに「あのとき厳しく指導してくださって、どうもありがとうございました」と感謝するのですよ! 厳しくされたからこそ勉強を続けられた、あれは愛の鞭だったのだと、本人が認めているし、あまつさえ感謝までするのですよ! この現実を、あなたはどう説明するのですか!?

哲人:当然、ありえる話だと思います。むしろアドラー心理学の理論を再学習するための、ちょうどよいモデルケースと言えるでしょう。

青年:ほほう、説明可能だとおっしゃるのですね?

哲人:3年前にお話しした議論を踏まえつつ、アドラー心理学のもう少し深いところまで降りていきましょう。きっと多くの気づきがあるはずです。

 

アドラー心理学の鍵概念であり、その理解においてもっとも困難を極める「共同体感覚」。哲人はそれについて「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」だと言う。そして、そこには共感という技術が必要になり、共感の第一は「他者の関心事」に関心を寄せることだと言う。理屈としては、理解できる。しかし、子どものよき理解者になることが、教育者の仕事なのか? 結局それは哲学者の言葉遊びではないのか? 「再学習」なる言葉を持ち出した哲人を、青年は鋭く睨んだ。

 

「変われない」ほんとうの理由

青年:聞きましょう。アドラーの、なにを再学習するのです?

哲人:自分の言動、そして他者の言動を見定めたときには、そこに隠された「目的」を考える。アドラー心理学の基本となる考え方です。

青年:わかりますよ、「目的論」ですね。

哲人:簡単に説明してもらうことはできますか?

青年:やってみましょう。過去にどんな出来事があったとしても、それでなにかが決定されるわけではない。過去のトラウマも、あろうとなかろうと関係ない。人間は、過去の「原因」に突き動かされる存在ではなく、現在の「目的」に沿って生きているのだから。たとえば、「家庭環境が悪かったから、暗い性格になった」と語る人。これは人生の嘘である。ほんとうは「他者と関わることで、傷つきたくない」という目的が先にあり、その目的をかなえるために、誰とも関わらない「暗い性格」を選択する。そして自分がこんな性格を選んだ言い訳として、「過去の家庭環境」を持ち出している。…そういうことですよね?

哲人:ええ。続けてください。

青年:つまり、われわれは過去の出来事によって決定される存在ではなく、その出来事に対して「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している

哲人:そのとおりです。

青年:そしてあのとき、先生はこんなふうにおっしゃいました。これまでの人生にどんなことがあったとしても、これからの人生をどう生きるかについて、なんら関係がない。自分の人生を決定するのは、「いま、ここ」を生きるあなたなのだ、と。…この理解で間違いありませんか?

哲人:ありがとう。間違いまりません。われわれは、過去のトラウマに翻弄されるほど脆弱な存在ではない。アドラーの思想は「人間は、いつでも自己を決定できる存在である」という、人間の尊厳と、人間が持つ可能性への強い信頼に基づいています。

青年:ええ、わかります。ただ、わたしはまだ「原因」の強さも捨てきれないでいます。すべてを「目的」だけで語るのはむずかしい。たとえば「他者を関わりたくない」という目的があったとしても、その目的が生まれた「原因」だって、どこかにあるはずですから。わたしにとっての目的論は、画期的な視点ではあっても、万能の真理ではありません。

哲人:それもいいでしょう。今夜の対話を通じて、なにかが変わるかもしれないし、変わらないのかもしれない。決めるのはあなたですから、わたしは強要しません。では、考え方のひとつとして聞いてください。

われわれは、いつでも自己を決定できる存在である。あたらしい自分を選択できる存在である。にもかかわらず、なかなか自分を変えられない。変えたいと強く願いながらも、変えられない。いったいなぜなのか。…あなたのご意見はいかがですか?

青年:ほんとうは変わりたくないから?

哲人:そういうことです。これは「変化とはなにか?」という問いにもつながっています。あえて過激な表現を用いるなら、変化することとは、「死そのもの」なのです

青年:死そのもの?

哲人:たとえばいま、あなたが人生に思い悩んでいるとしましょう。自分を変えたがっているとしましょう。しかし、自分を変えるとは、「それまでの自分」に見切りをつけ、「それまでの自分」を否定し、「それまでの自分」が二度と顔を出さないよう、いわば墓石の下に葬り去ることを意味します。そこまでやってようやく、「あたらしい自分」として生まれ変わるのですから。

では、いくら現状に不満があるとはいえ、「死」を選ぶことができるのか。底の見えない闇に身を投げることができるのか。…これは、そう簡単な話ではありません。

だから人は変わろうとしないし、どんなに苦しくとも「このままでいいんだ」と思いたい。そして現状を肯定するための、「このままでいい」材料探しながら生きることになるのです。

青年:ううむ。

哲人:それでは、「いまの自分」を積極的に肯定しようとするとき、その人の過去はどのようなトーンで彩られると思いますか?

青年:ああ、つまり…。

哲人:答えはひとつ。すなわち、自分の過去について「いろいろあったけど、これでよかったのだ」と総括するようになる。

青年:…「いま」を肯定するために、不幸だった「過去」をも肯定する

哲人:ええ。先ほどあなたの言った「あのとき厳しく叱ってくださって、どうもありがとうございました」と感謝の言葉を述べる人。彼らは「いまの自分」を積極的に肯定しようとしているのです。結果、過去のすべてがよい思い出になる。そこで語られた感謝の言葉だけをもって、強権的な教育を認めるわけにはいきません。

青年:「これでよかったのだ」と思いたいから、過去がよい思い出になる。…いや、おもしろい。机上の心理学としては、非常におもしろい考察ですよ。しかし、その解釈には同意できません。なぜかって? わたしが証拠です。わたしは、いまのお話にまったく当てはまりませんからね! 中学や高校時代の厳しく理不尽な教師連中にはいまだに不満をもっているし、間違っても感謝などしていません。あの監獄のような学校生活がよい思い出になるなど、ありえるはずがない!

哲人:それはあなたが、「いまの自分」に満足していないからでしょう。

青年:何ですって!?

哲人:もっと酷な洞察をするなら、理想には程遠い「いまの自分」を正当化するために、自身の過去を灰色に塗りつぶしておられる。「あの学校のせいで」とか「あんな教師がいたから」と考えようとしている。そして「もしも理想的な学校で、理想的な教師に出会っていたら、自分だってこんなふうじゃなかったのに」と、可能性のなかに生きようとしている

青年:し、失礼が過ぎますよ! なにを根拠にそんな邪推を!

哲人:はたして邪推を言い切れるでしょうか? 問題は、過去になにがあったかではなく、その過去を「いまの自分」がどう意味づけするか、なのですから。

青年:撤回してください! あなたにわたしのなにがわかる!

哲人:いいですか、われわれの世界には、ほんとうの意味での「過去」など存在しません。十人十色の「いま」によって色を塗られた、それぞれの解釈があるだけです。

青年:…この世界に、過去など存在しない!?

哲人:ええ。過去とは、取り戻すことのできないものではなく、純粋に「存在していない」のです。そこまで踏み込まない限り、目的論の本質には迫れません。

青年:ええい、腹立たしい! 邪推の次は「過去など存在しない」だと!? 右から左に穴だらけの虚言を並べ立てて、それで煙に巻いたつもりか!! 望むところだ、穴という穴を、ほじくり返してやる!!

 

あなたの「いま」が過去を決める

哲人:受け入れがたい議論であることは事実でしょう。でも、冷静に事実を積み上げていけば、きっと同意していただけるはずです。そこ以外に道はないのですから。

青年:思想の熱にやられて頭が焼き切れてしまったようですね! もしも過去が存在していないのだとしたら、「歴史」とはなんなのです? あなたの大好きなソクラテスやプラトンは、存在しなかったとでも? そんなことを言っているから、非科学的だと嘲笑されるのですよ!

哲人:歴史とは、時代の権力者によって改竄され続ける、巨大な物語です。歴史はつねに、時の権力者たちの「われこそは正義なり」をいう理論に基づき、巧妙に改竄されていきます。あらゆる年表と歴史書は、時の権力者の正統性を証明するために編纂された、偽書なのです。

歴史のなかでは、つねに「いま」がいちばん正しいのだし、ある権力者が打倒されれば、またあらたかな為政者が過去を書き換えていくでしょう。ただただ、自身の正統性を説明するために。そこに言葉本来の意味での「過去」は存在しないのです。

青年:しかし…!!

哲人:たとえば、ある国で武装集団がクーデターを画策したとします。鎮圧され、クーデターが失敗に終わった場合、彼らは逆賊として歴史に汚名を残すでしょう。一方、クーデターが成功し、政権が打倒された場合、彼らは圧政に立ち向かった英雄として歴史に名を残します。

青年:…歴史は常に勝者が書き換えていくものだから?

哲人:われわれ個人も同じです。人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「いまのわたし」の正統性を証明すべく、自由自在に書き換えられていくのです

青年:違う! 個人の場合は違います! 個人の過去、さらには記憶、これは脳科学の領域だ。引っ込んでろ!! あなたのような時代遅れの哲学者が出る幕じゃない!

哲人:記憶については、こう考えてください。人は過去に起こった膨大な出来事のなかから、いまの「目的」に合致する出来事だけを選択し、意味づけをほどこし、自らの記憶としている。逆にいうと、いまの「目的」に反する出来事は消去するのです。

青年:なんですって!?

哲人:カウンセリングの事例をひとつ紹介しましょう。ある男性をカウンセリングしていたとき、その方が子ども時代の思い出として「犬に襲われて足を噛まれた」という話をしました。彼は、日ごろから母親に「野良犬に会ったらじっとしていなさい。逃げたら追いかけてくるから」と言われていたそうです。昔は往来にたくさんの野良犬がいましたからね。そしてある日、道ばたで野良犬に出会います。一緒にいた友達は逃げたのですが、彼は母親の言いつけを守り、その場にじっとしていました。ところが野良犬に襲われ、足を噛まれたのです。

青年:先生はその記憶が、捏造された嘘だと?

哲人:嘘ではありません。事実噛まれたのでしょう。しかし、そのエピソードには続きがあるはずです。カウンセリングの回を重ねるなかで彼は、続きの物語を思い出しました。犬に噛まれてうずくまっていたところ、自転車で通りがかった男性が彼を助け起こし、そのまま病院まで連れて行ってくれたと。

カウンセリングの初期、彼は「世界は危険なところでもあり、人々はわたしの敵である」というライフスタイル(世界観)を持っていました。その彼にとって、犬に噛まれた記憶は、この世界が危険に満ちた場所でありことを象徴しり出来事だったのです。しかし、少しずつ「世界は安全なところであり、人々はわたしの仲間である」と考えるようになってきたとき、それを裏付けるようなエピソードが掘り起こされていきました。

青年:ううむ。

哲人:自分は犬に噛まれたのか。それとも他者に助けてもらったのか。アドラー心理学が「使用の心理学」とされる所以は、この「自ら選びうる」という点にあります。過去が「いま」を決めるのではありません。あなたの「いま」が、過去を決めているのです。

 

悪いあの人、かわいそうなわたし

青年:…われわれは自ら生を選び、自らの過去を選ぶ、と?

哲人:ええ。いかなる人間も、順風満帆な人生を歩むわけではないでしょう。誰にだって、悲しい出来事もあれば挫折もあり、歯噛みをするほど悔しい仕打ちに遭っている。それでは、どうして過去に起きた悲劇を「教訓」や「思い出」として語る人もいれば、いまだにその出来事に縛られ、不可侵のトラウマとしている人がいるのか?

これは過去に縛られているのではありません。その不幸に彩られた過去を、自らが必要としているのです。あえて厳しい言い方をするなら、悲劇という安酒に酔い、不遇なる「いま」の辛さを忘れようとしているのです。

青年:いい加減にしろ、この鉄面皮め! なにが悲劇の安酒だ! あなたの言っていることは、すべてが強者の論理、勝者の論理にすぎない! あなたには虐げられた人間の痛みがわからない。虐げられた人間を侮辱している!

哲人:それは違います。わたしは人間の可能性を信じるからこそ、悲劇に酔うことを否定しているのです。

青年:いいや、あなたがどんな人生を送ってきたのか聞くつもりはありませんがね、ようやく理解できた気がしますよ。要するにあなたは、大きな挫折もないまま、巨大な理不尽に遭遇することもないまま、雲をつかむような哲学の世界に足を踏み入れたのです。だから人々が負った心の傷を、そんなふうに切り捨てられるんだ。まったく、恵まれたご身分ですよ!

哲人:…なかなか受け入れていただけないようですね。では、これを試してみましょう。われわれがときおりカウンセリングで使用する、三角柱です。

青年:ほう、おもしろそうだ。なんです、これは?

哲人:この三角柱は、われわれの心を表しています。いま、あなたの座っている位置からは、三つある側面のうち二面だけ見えるはずです。それぞれの面になんと書かれていますか?

青年:一面には「悪いあの人」。もう一面には「かわいそうなわたし」と。

哲人:そう。カウンセリングにやってくる方々は、ほとんどがこのいずれかの話に終始します。自信に降りかかった不幸を涙ながらに訴える。あるいは、自分を責める他者、また自分を取り巻く社会への憎悪を語る。

カウンセリングだけではありません。家族や友人と語らうとき、相談事を持ちかけるとき、いま自分がなにを話しているのか自覚することは、なかなかむずかしいものです。しかし、こうやって視覚化すると、けっきょくこのふたつしか語っていないことがよくわかります。きっとあなたも、心当たりはありますよね?

青年:…「悪いあの人」を非難するのか、「かわいそうなわたし」をアピールする。まあ、そうとも言えるでしょうね…。

哲人:でも、われわれが語り合うべきことは、ここにはないのです。あなたがどんなに「悪いあの人」について同意を求め、「かわいそうなわたし」を訴えようと、そしてそれを聞いてくれる人がいようと、一時のなぐさめにはなりえても、本質の解決にはつながらない。

青年:じゃあ、どうするのです!

哲人:三角柱の、いま隠れているもう一面。ここにどんなことが書いてあると思われますか?

青年:ええい、もったいぶらずに見せてください!

哲人:わかりました。なんと書いてあるか、声に出して読んでみてください。

哲人が示した、三角柱に折られた紙。青年の位置から見えるのは、三面のうち二面だけだった。そこには「悪いあの人」という言葉、そして「かわいそうなわたし」という言葉が、それぞれ書かれている。哲人によると、思い悩んだ人間が訴えるのは、けっきょくこのいずれかなのだという。そして哲人は、その細い指でゆっくりと三角柱を回転させ、最後の一面に書かれた言葉を提示した。青年の心臓をえぐるような、その言葉を。

 

アドラー心理学に「魔法」はない

青年:…!!

哲人:さあ、声に出して。

青年:…「これからどうするか」

哲人:そう、われわれが語り合うべきは、まさにこの一点、「これからどうするか」なのです。「悪いあの人」などいらない。「かわいそうなわたし」も必要ない。あなたがどんなに大きな声でそれを訴えても、わたしは聞き流すだけでしょう。

青年:こ、この人でなしめ!

哲人:冷淡さゆえに聞き流すのではありません。そこに語り合うべきことが存在しないから、聞き流すのです。たしかに「悪いあの人」の話を聞き、「かわいそうなわたし」の話を聞き、わたしが「それはつらかったね」とか「あなたはなにも悪くないよ」と同調すれば、ひとときの癒しは得られるでしょう。カウンセリングを受けてよかった、この人に相談してよかった、という満足感もあるかもしれません。

でも、それで明日からの毎日がどう変わるのか? また傷ついたら癒しを求めたくなるのではないか? けっきょくそれは「依存」ではないのか? …だからこそアドラー心理学では、「これからどうするか」を語り合うのです。

青年:しかし、もしもわたしの「これから」を真剣に考えるというのなら、まずは前提となる「これまで」を知っていただく必要があるでしょう!

哲人:いいえ。あなたはいま、わたしの目の前にいるのです。「目の前にいるあなた」を知れば十分ですし、原理的にわたしは「過去のあなた」など知りようがありません。くり返しますが、過去など存在しません。あなたが語る過去は、「いまのあなた」によって巧妙に編纂された物語に過ぎない。そこを理解してください。

青年:違う! あなたはただ、適当な理屈をくっつけて、「泣き言をやめろ」と非難しているだけだ! 人間の弱さを認めず、人間の弱さに寄り添おうとせず、傲慢な強者の論理を押しつけているだけだ!

哲人:そうではありません。たとえば普段、われわれカウンセラーは、この三角柱を相談者にお渡ししてしまうこともあります。そして、「どの話をしてもかまいませんので、いまからしゃべる内容を正面にして見せてください」とお願いします。すると多くの方が、自ら「これからどうするか」を選び、その中身を考えはじめるのです。

青年:自ら、ですか?

哲人:一方、他派のカウンセリングでは、延々と過去をさかのぼることでいたずらに感情を爆発させるなど、ショック療法的な手段を採ることも少なくありません。しかし、そんなことをする必要はどこにもないのです。

われわれは手品師でもなければ魔法使いでもない。くり返しますが、アドラー心理学に「魔法」はありません。ミステリアスな魔法よりも建設的で科学的な、人間への尊敬に基づく、人間知の心理学。それがアドラー心理学なのです。

青年:…ふっふっふ、あえて再び「科学的」という言葉を使いましたね?

哲人:ええ。

青年:いいでしょう。呑みます。その言葉、いまのところは呑んでみせますよ。それではまさにわたしにとって最大の問題となっている「これから」について、教育者としての明日について、存分に語り合っていきましょう!

 

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